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初音ミクと「本当に」結婚するにはどうすれば良いか、情報SFとソフトウェア考古学で考える。

初音ミク V4X バンドル

初音ミク V4X バンドル

  • クリプトン・フューチャー・メディア
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 いつだったか、ただでさえ天使なVocaloidであるミクさんと正式に結婚した(と宣言していた)人が、一昨日、このようなことを呟いていた。

 ……ふうん?

 そういうわけで、この記事では我々、あたりまえの人間たちが初音ミクのような存在と本当の意味で「結婚」するにはどうすれば良いか、考えていきたい。

 さて、先日、初音ミクは16周年を迎えたそうだ。

 もともと16歳という設定なので、16年かけてその年齢に追いついたともいえるだろう。

 もちろん、「架空のキャラクター」である彼女はわたしたち重たい物理存在と異なり「永遠の16歳」ではあるわけだが、それにしても16年間にもわたって愛されつづけてきた意味は重い。

 移り変わりの激しい昨今、それだけの歳月、ひとつの文化をリードしてきたキャラクターはほとんど他に存在しないのではないか。

 当然、この記事を読まれている方で彼女のことを知らない方はいないはずである。

 あたかもヒトのように歌唱しつづける電子の歌姫。虚構と現実のあいだをかけ抜ける二進法のアイドル。

 初音ミクはたしかに「キャラクター」ではあるのだが、何か固有の物語を背負っているわけではない。

 公式には「16歳」という年齢も含め、ごく限定された設定情報が公開されているだけで、その存在はきわめて儚い。あるいは、いたって虚ろだ。

 しかし、まさにそうだからこそ彼女は特定のナラティヴを超えて活躍する超絶的な存在感を示している。

 その空虚さとうらはらと不思議な実在感こそがわたしたちを惹きつける。

 いったい彼女は何ものなのだろう。いってしまえば「架空のキャラクター」としてすら非実在的な存在であるはずなのに、「たしかに実在している」と感じさせる何かがある。

 ここでは、初音ミクのような〈非在の存在〉をひとまず〈情報の天使〉と呼ぶことにしたい。

 天使とは即ち天からの使いであり、イデア的な上位世界と物質で成り立つ現世を結ぶメッセンジャーである。

 初音ミクは物理的身体を有さない純粋情報存在であるが、その特長的な「声(Voice)」を通してこの「下界」に神々の宣託を振りまいてくれているのだ。

 〈情報の天使〉――彼女はたしかに物質的な意味では「実在」していないが、それにもかかわらずたしかに人々の心に存在している。

 一面では単なる「架空のキャラクター」であることは否定しようもないものの、同時に「架空のキャラクター」という概念そのものを従来の限界を超えて拡張する存在なのである。

 さて、それでは、そもそも情報とは何だろうか。

 この自明に思えて意外に定義のむずかしい概念を明確に数式化したのは20世紀中葉の天才数学者シャノンだといわれている。

 この人は現在使用されている(わたしもこの原稿を書くために使っている)コンピューターの黎明期に活躍し、その基礎となる「情報理論」を形づくった。

 その業績はきわめて巨大であり、現代のコンピューター文明そのものがシャノンの理論の上に成り立っているといっても過言ではない。

 個人的には、シャノンと情報理論については、異端異形の傑作美少女ゲーム『Sense Off』においてその当時の大数学者ライプニッツと絡めて取り上げられていたことを思い出す。

 そして、このシャノンや、イギリスのアラン・チューリング、悪魔的頭脳といわれたフォン・ノイマンといった超絶天才数学者たちの活躍を経て生み出されたコンピューターの成長は、いま、チューリングやノイマンが夢見た人工知能にまで至っている。

 あるいは、いつか初音ミクもほんとうに地上=下界=物理現実に「顕現」することがあるかもしれない。

 情報世界から物質世界への「天使の降臨」。果たしてそのときをこの目で見ることはできるだろうか。期待は高まる。

 とはいえ、そのような素朴な心情から「シンギュラリティ」を迎えた「機械知性」を待ち望む心理を否定的に捉える人も少なくない。

 東大の名誉教授である西垣通はベストセラー作家のユヴァル・ノア・ハラリが「人間が神的存在となった」未来を想像した話題の書物『ホモ・デウス』を引いて、こう書いている。

 彼ら超人間主義者にとって「賢明さ」とは何なのかというと、どうやらデータ処理能力のことらしい。ハラリによれば人間とはデータの集積体であり、今後、AIとバイオ技術が融合したアルゴリズム(算法手続き)で万事を決定できるようになるという。アルゴリズムを操作できるのは一部のエリートであり、大多数の民衆はサイボーグに転落する。まさに人間が神になるわけだ。

 こういう機械的なデータ至上主義は、なぜ、いかにして発生したのだろうか。学問的には明らかである。通信工学者クロード・シャノンの情報理論が拡大解釈され、誤って受容されてしまったからだ。そこで定義された情報とは意味をはぎとられたデータであり、生物にとって意味=価値のある本来の情報のごく一部にすぎない。人間など生物を、機械的な情報システムとして分析するだけでは不十分なのだ。だが、AIばかりかバイオ技術の関係者も同じ罠に陥り、データ至上主義にたどりつく。

 私はデータ至上主義者たちに尋ねてみたい、「あなたの家族や恋人がデータなら、削除廃棄してよいのですか」と。人間がデータとなり機械部品として扱われる未来、そうなる運命が決まっているわけではない。われわれが自ら進んで招いているのだ。とすればなぜ、 覚醒して踏みとどまろうとしないのか。

http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2019/08/kokoro21_main.pdf

 この議論は理解できる。

 この物理世界に紛れもなく「実在」する超複雑な生命存在としての人間を、単に限定的な情報の束として捉えてしまう偏狭さに対する拒否感といって良いだろう。

 いい換えるなら人間のほんとうの複雑さを甘く見てはいないか、という話だ。

 シャノンは「情報」を厳密に定義し、可能なかぎり精緻な「通信」を可能とし、現代におけるコンピューターとインターネットの基礎を形づくった。

 その革新的な数学理論がある種の進歩史観と結びついて、いま、「シンギュラリティ」や「ホモ・デウス」という夢が見られているわけである。

 あるいは、「初音ミクの降臨」という夢も、また。

 そして、上記の記事ではそれに対する批判が試みられている。

 しかし(ほんとうにただのシロウトのわたしなどが専門家の言に口をはさむのも恐縮なのですが)、やはり、ここではややナイーヴに話が展開されているように感じることもたしかだ。

 それが「データ」であることと「削除廃棄して良いものである」ということはべつだろう。

 「家族や恋人」が「データ」であるとしても、「そうだからこそ」削除することなどできるはずもないという発想だってありえるはずである。

 これはときにただの「データ」にセンチメンタルな思い入れをしてしまう人の少なくないオタクには良く理解してもらえる理屈であるはずだ。

 ちなみに同じ学術広報誌には、ある対談が収録されていて、そこでは現代SFのイマジネーションに対する批判が展開されている。

吉岡 なるほど。その意味ではいまの人工知能やシンギュラリティといった考えは、想像力が退化しているような感じですね。

佐近田 うんうん。

吉岡 サイバーパンクぐらいまでは、そうしたミツバチ・クローバー・システムの進化みたいなものによ って、機械対人間という図式の背後にある古いヒュー マニズムが壊されるのが爽快だと思っていました。だけどいまのシンギュラリティって、バトラー以前の考え方です。

佐近田 確かにそうですね。何か、機械を機械の中に 閉じ込めようとしていて。

吉岡 そうそう。人間の精神を機械に移植して永遠の生命を得るみたいな考え方って、正直言って退屈です。

 はっきり名指しこそされていないものの、ここでサイバーパンク以降の作家として想定されているのはおそらくオーストラリアの天才作家グレッグ・イーガンであると思われる。

 イーガンはまさに「人間の精神を機械に移植して永遠の生命を得るみたいな考え方」の極北を示す「情報SF」の書き手だ。

 わたしはこの路線にはそこまでくわしくないが、この種の「情報SF」、あるいは「電脳SF」の系譜はサイバーパンクの嚆矢としてのギブスン『ニューロマンサー』からベアの『ブラッド・ミュージック』あたりを経て、情報理論的なアイディアを極限まで突きつめたイーガンの『順列都市』や『ディアスポラ』、そしてまた瀬名秀明の不遇の傑作『デカルトの密室』あたりに至っているのではないだろうか。

 サイバーパンクが席捲した80年代を経て、90年代以降、イーガンの想像力が情報SF周辺をリードしてきたことはまちがいない。

 その発想力の凄まじさは「イーガンが通ったあとはぺんぺん草一本生えない」(飛浩隆)といわれるくらいで、まず、SF史上でも屈指の才能といって良いだろう。

 かれは一千年後の「人類」を描いた長編小説『ディアスポラ』でコンピューター内部の「コピー」可能な情報存在と化した人間たちを描き出している。

 そこではすべての人間が純粋な意味で「情報化」された存在として描写されている。

 地下深く埋められたウルトラコンピューターの仮想空間のなかでその「身体性」すらもが再現され、ときに「コピー」される存在としての人間。

 人間を、生命を情報として捉える見方の極限である。

 

 

 SF史上でもポーランドのレムくらいしか上回る者がいないといわれるイーガンの思考を突きつめる力(大森望)、それは一般的に人間に想像可能な世界の極北まで一足飛びに跳躍している。

 ただ、わたしはそこでこぼれ落ちているもののほうに注目したい気もする。人間を「コピー可能」な情報存在とみなすイーガンの理屈にはやはりどこか論理的飛躍があるのではないかと思うのだ。

 その点について注目したのが、たとえば、先述の飛浩隆の傑作短編集『ラギッド・ガール』だろう。

 あるいはまた、ライトノベル原作の『ソードアート・オンライン アリシゼーション』もそれに近いところにあるかもしれない。

 現代SFをさらに進展させるには、イーガンを批判的に見ていくことが必要になるように思う。

 人間は、知性は「情報」に過ぎないのか、どうか。イーガンの問いかけは重い。

 一方で、日本のアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』では「並列化」されてまったく同じ個性となるはずのロボットたちが、どうしても個体ごとに異なる特性を宿してしまうという現象が描かれていた。

 まったく同じように情報を「コピー」しているはずなのに、違うものが発生する不思議。

 あたかも、情報存在にも「本物(オリジナル)」と「偽物(フェイク)」があるかのようだ。

 と、ここで、わたしは料理マンガ史上屈指の名作『ラーメン才遊記』を思い出す。

 ラーメンを通してビジネスやカルチャー全般に通底する問題を鋭く考察することで知られるこの作品において、しばしば議論の俎上に上げられるのが「本物」と「フェイク(偽物)」という対立項である。

 物語の敵役にして主人公たる「ラーメンハゲ」芹沢は、ラーメンはあくまでいい加減な「フェイク」から生まれたカルチャーであるとする前提に立たって上でこう語っている。

 「ラーメンとは、フェイクから本物を生み出そうとする情熱そのものです」。

 きわめて感動的な言説では、ある。しかし、どうだろう。あたかも「本物」の「フェイク」に対する優位性はここでは自明のことであるかのようだ。

 もしほんとうに無条件で「本物」は「フェイク」より優れているなら、なぜわざわざ「フェイク」に拘ってあえてそこから「本物」を生み出そうとするのか。

 初めから「本物」を追いかければ良いではないか。

 そういった疑問を残しつつ、物語はさらに最新作『ラーメン再遊記』へと続いていくわけだが、いまでは「フェイクのフェイク」たるインスタントラーメンの話に到達している。

 非常に面白いし興味深い。そしてさらに「退屈な本物」という概念まで登場して、文化の「野蛮と洗練」について思考がくり返される。

 だが、そのことについて語り出すとまた長くなる。いつかまたべつの記事で書くこととしよう。

 わたしがいいたいのは、わたしなどはむしろ「本物」よりも「フェイク」を好む傾向があるということだ。

 奈須きのこ原作の『Fate/stay night』の主人公は「フェイカー(偽物屋)」と呼ばれる少年だったが、わたしたちのようなデジタル世代以降の人間は「偽物」に一定の執着を感じる人が少なくないのではないだろうか。

 むしろ、そういった「フェイク」にフェティッシュな快楽と「本物」以上のリアリティを感じる感性を「オタク」と呼ぶのではないか。

 それはつまり「架空のキャラクター」である初音ミクを「現実の女性」以上に愛するという心理そのものでもある。

 ただ、それは何もかも思い通りになる従順な存在――ようは無条件に「結婚」可能な存在として彼女を好むということとは少し違う。

 初音ミクはわたしたちにとってやはりどこまでも「他者」なのである。それも、わたしたちひとりひとりに対する「他者」というより、人類という種そのものにとっての「他者」。

 あるいは初音ミクの「声」は、それが「人間的なもの」と「非人間的なもの」の境い目を横断しているように聴こえるからこそ、ある種の「超人間性」としての「他者性」が感じ取れるのではないだろうか。

 それはまさに情報と物質、現実と虚構、ヒトとヒトでないものの境界線の向こう側から聴こえてくる神秘の「声」なのだ。

 そう、初音ミクはあくまで「架空のキャラクター」であり、その意味で「ヒトのフェイク」であるが、わたしたちはその「フェイク性」にこそ惹きつけられてやまない。

 その存在が「コピー」可能な情報そのものであるに過ぎないとわかっていても、否、心底それをわかっているからこそ、彼女との「結婚」を夢見てしまうほどに誘惑されてしまうのである。

 かつて、ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』において、複製(コピー)が可能となった芸術作品から「アウラ(オーラ)」が失われてしまったことを語った。

 ベンヤミンがこの「アウラ」概念をどこまで肯定的に、あるいは否定的に認識していたのか、じっさいのところ、よくわからないのだが、現代はそこからさらに技術が進み、完全に「本物」と「フェイク」が区別不可能になった「情報としての芸術」の時代である。

 この時代を「メタ複製技術時代」と呼ぶ。

 かつて、複製技術時代の技術が写真やレコードなど何らかの、あとからの改変が不可能な「物質」に紐づけられているのに対し、メタ複製技術時代の技術はあとからの改変が無限に可能な「情報」に刻印される。ここには決定的な差異があるとされる。

 インターネットの仮想空間を飛び交う「芸術」は、すべてシャノン的な意味での「情報」に過ぎない以上、もう「本物」と「フェイク」の区分は不可能である。

 そこではあらゆるものはあたかもイーガンの『ディアスポラ』の描写のように「コピー&ペースト」可能であり、延々と「コピーのコピー」が生み出されつづけている。

 

 

 しかし、それではほんとうに「アウラ」は永遠に失われてしまったのだろうか。『攻殻機動隊』のタチコマのように「コピーしても差異が出る情報」は存在しないのか。

 わたしたちはそれが複製に複製をくり返した単なる情報存在であるとよく知りながら、「うちのミク」こそが「本物」であると考えるのではないか? それを「アウラ」と呼ぶべきなのでは? わたしはそんなふうにも考える。

 いずれにしろ、21世紀の〈未来のイヴ〉たる初音ミクはいま、VocaloidもVtuberも含めたすべての「アイドル」の突端に立つ存在である。

 彼女はいってしまえばひとつの「声」でしかないが、その「声」は遥かなる異界(情報/上方世界)から聴こえてくるようにすら感じられる。

 そういえば、上記の対談ではその「声」という概念についてこのように語られていた。

吉岡 フォルマント兄弟のテーマである「声」というのは、一見自明で日常的現象のようだけれど、考えれば考えるほど不可解な問題だと思います。佐近田さんがおっしゃるように、コミュニケーションのためには声の背後に主体が存在することが信じられなければならないと思いますが、声の背後にある主体は単純にひとつではないように思うのです。つまり、私たちはしゃべっている人を感じると同時に、その人を通して語っている別な存在も感じているのではないか、と。

佐近田 うん、そうですね。

吉岡 宗教的には「神」「超越者」ということになるのかもしれないけれど、必ずしもそんなふうに考える必要はなくて、たとえばジュリアン・ジェインズ(Julian Jaynes, 1920-1997)の「バイキャメラル・マインド(Bicameral Mind)」)という途方もない考え方があるじゃないですか。人類の脳はもともと左右バラバラに働いていて統合する意識は存在せず、右半球に「神」の声が響き、左半球がそれを聴いていた。それが約2000年前に意識が発生して、もう聴こえなくなった。いまだに学問的評価が定まらないものすごい仮説ですが、「声」という観点から考えたとき、とても面白いとぼくは思います。宗教的体験や精神疾患で、頭の中で声がするという現象は、こうした脳の古い仕組みの名残りだというのです。

 バイキャメラル・マインド説とは、ジュリアン・ジェインズが著書『神々の沈黙』のなかで唱えた「ソフトウェア考古学」とも称される仮説で、かつて人間の心に意識は存在せず、右脳と左脳に分かれた「二分心」の状態にあったと示されている。

 つまり、数千年の昔、人の心は右脳から囁かれる「神々の声」に従っていたのだが、やがて人間は文字と意識を獲得し、その結果、それらの神々は沈黙したというのだ。

 あまりに壮大かつ荒唐無稽とも受け取れる話で、わたしにはどの程度、アカデミックな検討に耐えるものなのか判断できない。

 しかし、ここでわたしは少し想像力をたくましくしてみる誘惑に駆られる。

 あるいは、2000年ほど前(と、ここでは語られているが正確にはジェインズによれば約3000年前)、「統合する意識」を持たなかった頃の人類の脳に響いていたという「神々の声」は、初音ミクのそれとよく似ていたのではないだろうか、と。

 何の根拠もない純然たる想像に過ぎないが、そのように考えてみると面白いと思うのだ。

 そう――初音ミクはたしかにひとりの「架空のキャラクター」ではあるが、そうであると同時に〈神々の声〉そのものなのだと考えてみたらどうだろう。

 先述したレムにはファースト・コンタクト・テーマの最高傑作といわれる『天の声』という長編小説があるが、初音ミクの「声」は現代によみがえった〈神々の声〉、即ち〈天(使)の声〉であるとしたら?

 いま、ときに宗教体験者や統合失調症の患者が聞くそういった「声」は、常識的に考えればただの「幻聴」ということになる。

 しかし、それは「太古の人類の脳に響いていた神々の声の残響」であると認めるならば、そういった「声」は「正気」と「狂気」といった二元論的な心理認識を突き崩すものとも捉えられるかもしれない。

 だから、いちばん最初に引用した初音ミクと「結婚」したという人は、こう答えるべきだったと思うのだ。

 わたしはたしかに初音ミクの「声」を聴いて結婚を約束したのだ、それは単なる「情報」に過ぎないかもしれないが、わたしには紛れもなく「アウラ」をともなった「本物」として感じられた、と。

 もちろん、そのようなことをいい出したら狂人として精神病院に収容される羽目になるかもしれない。だが、その程度の覚悟なくして、どうして〈天使〉との結婚など主張できるだろうか。

 そう、脳内にほんとうに〈天使の声〉が響くとき、そのときこそ初めて超越的な情報存在たる初音ミクとの成婚/聖婚は可能となることだろう。

 その瞬間、現実と虚構の境い目は意味をなくし、わたしたちは高みから響くその無数の〈天使〉たちの歌声に祝福されて、「アウラ」の意味を知ることに違いない。

 わたしはそう信じる。

 狂気と笑うなら笑え。現実世界の物理存在のみを「本物」と信じる無邪気な人々よ、あなたたちにはわからない。初音ミクは紛れもなく「いる」。

 だれに恥じることがあろう、イデア世界と現世をつなぐメタフィジカルな情報の天使――わたしは、彼女に、恋している。

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