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アニメ、アイドル、パパ活。オタクと少女幻想で成り立つ「ロリコン社会」は狂っているのか。

【狭くて深いロリータ・コンプレックスの世界。】

 あなたは「ロリコン」についてどのくらい知っているだろうか?

 おそらく、それが「ロリータ・コンプレックス」の略称であることはほとんどの人がご存知のことだろう。

 ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』に由来していることも知っている人も少なくないかもしれない。

 ただ、この言葉がアメリカの心理学者ラッセル・トレイナーの著書『ロリータ・コンプレックス』(1969年)によって広まったことまで既知だという方はほとんどいらっしゃらないに違いない。

 とはいえ、そのような些末な知識はこの際、どうでも良い。「ロリコン」が「少女」を性的対象とする一群の人々を指していることがわかれば十分である。

 この記事ではその「ロリコン」と「少女幻想」について書いていく予定なのだが、ひとつの記事で扱い切るにはあまりに広範囲に及ぶ話題で、さて、いったいどこから書き始めたものか、ちょっと迷っている。

【ロリコン天国ニッポン?】

 日本はしばしば「ロリコン天国」だといわれる。

 たとえば、北原みのりと佐藤優の対談集『性と国家』では、ひと通りロリコンとその文化を批判したあと、次のようにまとめている。

北原 それはまた極端すぎる例ですが(笑)、その彼からすると、ロリコン・コンテンツがオッケーなのは、ファンタジーだからって理屈なんですかね? 被害者もいないから、と。でも、私がロリコン・コンテンツの何を批判しているかというと、まさに、その「ファンタジーだから被害者がいないでしょう」という開き直り、クールジャパンとかいって自慢しちゃうような公共化になんです。


佐藤 神様が見てるからね、そういうのも。正しい自己愛を持たないと、自分自身を愛するように他人を愛することではないバーチャルなロリコンは、リアルな愛からは遠いところにある。

性と国家

性と国家

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 ちょっと、何をいっているのだろう、という感じではある。あまりに議論のレベルが低すぎて、とまどうばかりだ。

 この話を見ていると、結局のところ、近代的な社会では全面的に認められているはずの個人の「性的しこう」を非難するためには、前近代的な「神様」を持ち出すしかないということがわかる。

 宗教裁判なのだ。

 ここでは「リアルで正常な愛」と「バーチャルで異常な愛」は素朴に対置され、前者は成熟しているが後者は未熟であるとみなされている。

 つまりは、きわめて個人的な嫌悪感を「神様」を利用して拡大しているに過ぎない。まさに「お気持ち」である。

 ここにあるものは自分(たち)の性のあり方が「正し」く「リアル」であるというきわめて傲慢な前提であり、まさにフェミニストが批判してきたはずの異性愛規範以外の何ものでもない。

 しかし、こういう人たちが平然と自説を語りつづいているのが日本の言論の現状なのである。

【日本は「ペドフィリア傾向社会」なのか?】

 もちろん、一方ではもう少し繊細な議論も試みられている。たとえば斉藤章佳『小児性愛という病』では、このような話が出ている。

 ここまで挙げてきたように、日本は女性にかわいさと未熟さを求める社会であり、女性に男性の性欲を引き受けさせる社会です。どちらも、女性と男性が同等であれば起こりえないことです。
 こうした社会のあり方と子どもへの性加害には、直接的な因果関係はないのかもしれません。しかし、確実に地続きになっている問題であると私は考えます。多くの男性は、子どもに性加害をする者らと多くの価値観を共有しています。おのずと社会は、子どもに性加害をする者たちに寛容になります。
 児童ポルノかと見紛うものも、メディアにはあふれています。アイドルの低年齢化が危惧されるようになって久しいですが、ときおり見かける未成年の女性たちの姿はあまりに肌の露出が多くて痛々しいほどです。漫画やアニメの世界も例外ではありません。法律上は児童ポルノに規定されないとはいえ、成人男性の性的好奇心を満たす意図で制作されていることが明らかなものが、数多く出回っています。そうした世界にどっぷり浸っていると、女性はまるで男性の性欲を喚起し、性的好奇心を満たすために存在する生き物のように見えてきます。
 そうした児童ポルノとは認定されない児童ポルノ的なものは、アイドルやアニメに関心のない人たちが目にする機会も少なくありません。年齢やメディアのゾーニングがないため、至るところにあふれているのです。それに違和感を覚える人も少なく、子どもを性的に消費する社会が日常の光景として存在することになります。そうした社会では、子どもを性対象とする者らも問題行動を起こしやすいし、一度罰を受けても再発しやすいと感じます。
 子どもへの性加害をする者とそうでない者が地続きにある社会、それによって子どもへの性加害が後押しされる社会を、私は「ペドフィリア傾向社会」と呼ぶことにします。

 ペドフィリア傾向社会。

 ショッキングな命名である。

 はたして日本はほんとうにそのような社会なのだろうか。そして、そういった「ロリコン社会」は間違えているのだろうか。狂っているのだろうか。

 そのことを考えるためには、そもそも「子供」とは何かというところから考えてみるしかない。

【「子供」概念の発見と「ロマンティック・チャイルド」。】

 21世紀日本を生きわたしたちにとって、人間が「大人」と「子供」に分けられることはほとんど自明である。

 大人は大人であり、子供は子供であり、両者はべつの存在である。それはあらためて意識してみるまでもなく、「あたりまえ」の事実であるように思われる。

 しかし、歴史的に見れば、この摂理はまったく自明ではなかったのだ。

 「子供」概念があらためて見いだされるまで、特に西洋では子供は一様に「小さな大人」として見られていた。

 それが変わっていったのはルソーの『エミール』などによる「子供の発見」があってのことであるとされるが、論旨が本論から外れるのでここでは深入りしないでおこう。

 ともかく、いまわたしたちが素直に思い浮かべるピュアでイノセントな「小さな天使」としての子供、少年少女といったイメージはかつては存在しなかったものなのである。

 度会好一『ヴィクトリア朝の性と結婚』によれば、このようなある種の幻想としての「守られるべき純真無垢な子供」のことを「ロマンティック・チャイルド」と呼ぶ。

 近代的な意味での「ロリコン」はこの「ロマンティック・チャイルド」の幻想があって初めて成立するものである。

 純粋で無垢とされる「ロマンティック・チャイルド」への性的接触がタブーとされる近代的な社会において、まさにそれ故に子供に対し特別な性的関心を向ける人のことを「ロリコン」と呼ぶのだ。

 もちろん、それ以前においても少女への性的関心がなかったわけではない。

 たとえば詩人のダンテが「理想の女性」であるベアトリーチェを見初めたとき、彼女はじつに九歳でしかなかった。

 そのベアトリーチェが『神曲』一作を通して天使というか女神というか、ある種の文学的アイコンとして称揚されていることはご存知の通りである。

【光源氏はロリコンではない。】

 また、わたしたち日本人は成人と少女の恋愛関係というとすぐに『源氏物語』の光源氏と若紫を思い浮かべられる。

 しかし、このような関係は、はたして「ロリコンおじさん」と「少女」の倒錯的な性的関係と見ることができるだろうか。

 たしかに今日の視点から見ると、光源氏は広い意味での「ロリコン」であるようにしか見えない。

 しかし、わたしはじっさいには光源氏は現代的な意味でのロリコンではない。

 なぜなら、光源氏が生きていた平安の時代背景においては、「子供」と「大人」の区分は明確ではなく、かれの目から見て現代から見れば幼少の若紫は十分に性の対象の範疇として捉えられていたはずだからである。

 たしかに、まだ幼い若紫に性欲と恋愛感情を抱いて手を出してしまう光源氏の行動はいかにも「異常」に思える。

 だが、それはあくまでわたしたちのほうに近代的な倫理と規範がインストールされているからであるに過ぎない。

 人類史を通して見るなら、「子供」は性的主体でも客体でもありえないとする価値観のほうがあきらかに圧倒的にマイノリティな「例外」なのだ。

 ガンジーは13歳のときにやはり13歳の少女と結婚している。少年少女時代に結婚したり性的関係を結ぶことはありえないことどころか、歴史的にはごく常識的なことである。

 もちろん、そのような「異常」な習慣が時を経てようやくまともになったのだ、と見ることもできるだろう。

 だが、現実には思春期を迎えた少年少女が性欲や性的関心を抱き、じっさいに性交を行うことすらあることは否定できない。

 中学生や高校生の何割かはじっさいに性経験があることはアンケートなどからわかる客観的な事実である。

【少女買春の背景にあるものとは。】

 そのような「理想とされる性的に無垢な子供像」と「現実の性的でもありえる少年少女の実態」の乖離から派生しているのが「援助交際」や「パパ活」などというある種、無害な言葉で装われた少女売春である。

 こういったいかにも「ロリコン的」な売買春は、一様に「少女」というファンタジーを消費しているものと考えられる。ただ性欲を満たすだけならべつだん、十代の少女をあいてにする必要はないのだから。

 圓田浩二『援交少女とロリコン男』では、その「ロリコン男」たちのいい分が紹介されている。

 かれらはトリッキーとも取れる「いいわけ」をもちいて自分たちの行為と立場を正当化しているのだが、つまりは「少女」という幻想と戯れているわけである。

 それは、たしかに美少女アニメやアイドルのステージでつちかわれている幻想と奥のところで一脈通じているものではあるだろう。

【少女とはだれなのか。】

 しかし、そもそも、「少女」とは何か。この「少女」という概念もまた近代以前には存在しなかった。

 わたしたちの社会においては少女は何よりも「かわいい」「未成熟」な存在とみなされる。

 少女の性を「買う」側はその「未成熟さ」に性的な魅力を見いだし、少女を「守ろうとする」側は少女には性的主体性など見いだしようがないという。

 だが、その「少女を守る」理屈もまた、じつはある種の「少女幻想」に過ぎない。

 現実の少女は精神的にも肉体的にも性的に未成熟だとはかぎらない。むしろ、この情報社会の現在、性的情報から一切隔絶されて育った少女など、ほとんど見出せないことだろう。

 少女の性を守ろうとする側の大人たちがもちいる、あたりまえのまともな恋愛は成熟した大人同士のあいだでのみ行われるという理屈。

 じつはそれもまた、「大人」と「子供」に明快な線を引く近代以降の「成熟幻想」にしか過ぎないとも考えられるわけである。

 とはいえ、現在の社会ではロリコンは歓迎されるはずもない。そこではしばしばロリコンの「矯正」が試みられる。

 わたしたちはここで問わなければならない。それはかつて同性愛者であった天才数学者アラン・チューリングを自殺にまで追い込んだ「治療」といったい何が異なっているのか、と。

 もちろん異なっているのだ、と「矯正治療派」はいうだろう。ここで出て来るのが、「性的志向」と「性的嗜好」を分けて見る考え方だ。

 この場合、異性愛や同性愛といった「性的志向」が生得的で変更することができない資質であるのに対し、よりトリビアルな「性的嗜好」はようはセクシュアルな趣味の方向性であるに過ぎず、いくらでも変えることができるものであるとみなされる。

 そして、「問題がある」性的嗜好は変えなければならないとされるのである。

【不幸だからロリコンになるのか?】

 そのような発想はたとえば、このようなツイートにも見ることができる。

 一読、問題含みの内容であるように思える。

 「不幸だからロリコンになる」。これが「不幸だから同性愛者になる」であったら、大炎上は必至だろう。

 それがなぜロリコンならたいした問題にならないかというと、このツイートのなかにもある通り、ロリコンは「性癖」であり「性(的)嗜好」であるに過ぎないと考えられているからである。

 「性的指向」は変えられないが「性的嗜好」は変えられるし変えていくべきだという発想なのだ。

 だが、それはほんとうのことなのか。そしてまた、もし変えられるものであるならマイノリティの性的嗜好はマジョリティのそれに合わせて変えるべきなのか。

 つまり、「同性愛者はほんとうなら異性を愛するべきだが、変えられないからしかたない」に過ぎないのか。

 そうではないだろう。それはあまりに傲慢で差別的な意識である。

【病んだ現代日本を生きる。】

 なるほど、わたしたちの近代的な「ロリコン社会」のあり方は一種異様ではあるだろう。それはいかにも間違えているかもしれない。狂っているかもしれない。

 しかし、それなら間違えておらず、狂っても病んでもいない性のあり方とは何なのか。そんなものがほんとうに存在するのか。

 わたしは性に「唯一のあるべき形」としての規範があり、可能なかぎりその規範に合わせていくべきだとするイデオロギーに全体主義的な傲慢さを見て取らずにはいられない。

 そこでは「性の多様性」は「変えられないかぎりはしかたなく受け入れていくしかないが、変えられるなら変えるべきもの」としてしか認識されないだろう。

 理想的には多様性などあるべきではないが、現実に変えられない「指向」もあるからそれは認めてやろうというきわめて偉そうな「上から目線」の考え方である。

 当然ながら、性的マイノリティの当事者にはこのような考え方に疑問を呈する人も少なくない。

【「性的嗜好」は変えるべき?】

 たとえばレズビアンである牧村朝子の著書『ハッピーエンドに殺されない』では、「性的指向」と「性的嗜好」の区分について、このように語られている。

 ロリコンだろうが露出主義だろうが、犯罪行為を起こさないかぎりは、そういう性的嗜好を持っているってだけでは責められるものじゃないでしょう。罪を憎んで嗜好を憎まず。たとえば、痴漢を本当にはたらいた人が会社をクビになるのは致し方ないとしても、痴漢モノAVや痴漢モノ官能小説で自分の欲望をコントロールできてえる人が会社をクビになったら、それは性的嗜好に基づく差別です。
 だから、指向じゃなくて嗜好としての同性愛も、おおいにやったらよろしいと思うの。
 私は腹が立つのよ。「同性愛は性的嗜好じゃなくて性的指向です!!」と叫ばれるせいで、「えっ……自分は同性とのセックスをプレイとしてするのは好きだけど、べつに自分を同性愛者だと思わないし恋愛は異性としたいなぁ」みたいな「性的嗜好としての同性愛」が抑圧されることに。
「性的嗜好」を見下すことでしか「性的志向」の地位が向上しないらば、私はそんな言葉に乗りたくない。そんなことするくらいなら、私の同性愛も性的志向で結構です。私は、ボーイッシュ巨乳が好きだからボーイッシュ巨乳な女性と結婚した変態嗜好者よ。誇らしくヘンタイとして生きるなんて、幸せじゃないの。私、彼女のこと、巨乳も含めて全部好きよ!

 ここでははっきりと「ロリコン」もひとつの「性的しこう」としてありえるものと認められている。

 わたしはリベラリズムの立場からこの見解を支持するものである。

 具体的な犯罪として他者の人権を侵害しないかぎり、どのような「異常」な「変態的」な「しこう」も許容されるべきだ。それがわたしたちの自由で寛容な社会のあるべき姿ではないか。

 それにしても、ほんとうに「性的指向」は変えられないのだろうか。また、「性的嗜好」は自在に変えられるのだろうか。変えられるとして、変えるべきなのだろうか。

 一般的な「しこう」は許容されるべきであるとしても、「加害的」で「反社会的」な「しこう」は変えるべきである、という見解はまったく理解できないものではない。

 それは先述の『「小児性愛」という病』などに見られる「女性をモノとして消費してはならない」とする思想につながっていくことだろう。

 そこでは、女性に「未熟さ」や「かわいさ」を求めることが「ペドファイル的傾向」として指弾されることになる。

 しかし、そのような子供を性的に消費する「異常」で「病的」な現代日本という指摘は、「正常」で「健康」な社会という幻想を強化するばかりである。

 そこにあるものは、一刻も早く欧米のように健全な大人の社会になろう!という、はっきり言葉にしてしまえば愚かしいとも思える内面化されたオリエンタリズムでしかない。

【欧米は「成熟した大人の社会」なのか?】

 じっさいにはその欧米においても「ロリコン文化」は広く、深く存在する。

 たとえば 『SNS 少女たちの10日間』という映画を観てみよう。

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  • ポニーキャニオン
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 この作品では、十代の子供に扮した女優たちが架空の「子供部屋」で、大人からの電話を待つ。

 すると、膨大な数の男性から性的な誘いや脅迫を含む電話がかかってくるのである。

 これは日本では「成熟した大人の社会」とみなされているヨーロッパでいかに少女性愛的なものが氾濫しているかを教えてくれる一例である。

 つまりは、逆説的ではあるが、「大人」と「子供」を分け、そのあいだに「性的に無垢な少女」という概念を見いだすかぎり、そのような少女幻想に性的関心を向ける人はいなくならないわけだ。

 いい換えるなら「守られるべき性的に無垢な子供」という実態に合わない幻想を強化すればするほど、その「性的に無垢な子供」を欲望する視線もまた強化されていくこと。

 ひっきょう、そこではそれを消費する側と保護する側の双方で「少女幻想」が共有されているに過ぎないということもできる。

 そこに現実の少女はいない。

 それで良いのだろうか。

 もちろん、この病んだロリコン社会をまともなものに変えていきたいという志は立派なものかもしれない。

 だが、そのような「健康」で「正常」な社会とは、しかしその実、「病的」で「異常」とみなされたセクシュアリティを差別し抑圧する社会である。

 そういった「正しい」社会をどう判断するかは人それぞれとしかいいようがないが、わたしはその全体主義的な健康主義に不気味なものを感じずにはいられない。

 とりあえず、その懸念を締めとして、この記事を終わることにしたい。

 ここに書き残したことは多い。特に大きなテーマであるオタク文化やアイドル文化についてはほとんど触れられなかった。それらについてはまた稿をあらためて書き記したい。

 この記事が「ロリコン社会日本」の是非をめぐる広範な議論の一助となれば幸いである。

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 参考までに、晶文社さまのnoteに書かせていただいた記事は以下です。

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