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三井寿が湘北高校バスケ部を襲撃したわけと「理由なきテロル」の闇。

 

0.はじめに。

 この記事の姉妹記事で「男性編」です。

 ジョーカーのような「ダークヒーロー」をめざす犯罪者たちの「心の闇」とはなにか。その秘密をさぐろう。

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1.「殺すべきか、死ぬべきか、それが問題だ」。

 かつて、かの天才劇作家シェイクスピアが生み出した復讐の王子ハムレットは極限の苦悩に際して呟いた。

 「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。(To be or Not to be, that is the question.)」。

 その悲痛な独白は現代において少し形を変えてくり返される。「殺すべきか、死ぬべきか、それが問題だ。」と。

 たとえば、エリック・ハリスとディラン・クレボルドというふたりの学生による、死者十数名を出した犯行で全世界を戦慄させたコロンバイン高校の銃乱射事件に取材し、可能なかぎりの事実をつまびらかにしようとしたデイヴ・カリンの大部な一冊『コロンバイン銃乱射事件の真実』には、このような一節がある(強調部分は引用者による。また、ハリエットとはディランが熱烈に想いを寄せた少女の仮名である)。

 自殺か、殺人か。これがパターンになっていた。ときおり顔を出す殺人願望、すべてのページにあふれる自己破壊。「仮に愛を選んでもハリエットがオレを愛さなければ、オレは手首を切り、首に巻いたアトランタをぶっぱなす」彼はそう書いた。エリックはパイプ爆弾の一つにアトランタと名づけていた。

 じっさい、コロンバイン高校において数十名の死傷者を出す事件を起こしたあと、エリックとディランは凄惨な自殺を遂げた。

 上記の記述は非常に象徴的だ。その事件は「他殺」と「自殺」というふたつの可能性のあいだの葛藤のあいだで起こったものだというわけである。

 いずれを選ぶにしろ、当人には破滅が待っているわけだが、その死の衝動(タナトス)が「内」に向かった場合は当人のみ死亡して終わるのに対し、「外」に向かった場合は膨大な犠牲者が出ることになる。

 殺人か、自殺か。殺すべきか、死ぬべきか。その落差は深刻で巨大なのである。

 もちろん、この場合、ふたりの犯人は「他殺」の末に「自殺」に至ったわけであり、そのダークなエネルギーは「外」と同時に「内」へ向かい、かれら自身を殺害したのだといえる。

 アメリカではしばしばこの種の銃乱射事件が起こる。事件の被害者の両親と加害者の両親の密室での対話を描いた『対峙』というタイトルの映画もある。傑作だ。

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 ちなみに、この事件に関しては、当初、犯人たちを「いじめの被害者」と見る見方が支配的だったが、現在では否定的に受け止められているようだ。

 事件はアメリカの高校におけるスクールカースト低層のいじめられっ子の上層のいじめっ子に対する復讐というストーリーで読み解けるとはいい切れないわけだ。

 じっさい、エリックが遺した記述を読んでみると、むしろそこには死をもいとわない黒々とした自己顕示欲、ある種の「ダークヒーロー指向」が見て取れるように思う。

 それを道徳的真理の一切を欠いた「サイコパス」に特有の願望と見ることもできるかもしれないが、一方でこういった、あまりにも劇場的な政治主張なきテロル、「売名殺人」はいまや世界的で――もちろん、わが日本でも――散見されるものとなっている。

 現代日本において殺人事件はきわめて少なくなったにもかかわらず、何年かに一度、きわめて印象的なその種の事件が起こっていることを気に留めている方もおられるはずだ。それらのすべてを「サイコパス」のしわざと見ることはムリだろう。

 そういった事件一般について語られたフランコ・ベラルディ『大量殺人のダークヒーロー なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?』でも、一節を裂いて日本について語られている(社会的ひきこもりについての話が主である)。

 もちろん、こういった、ベラルティ的にいうなら「大量殺人のダークヒーロー」たちによる事件の数々を、一律に百万人に一人の確率で生まれる悪魔的な「サイコパス」の邪悪な実験と見る人はいなくならないだろうし、じっさい、そのような側面もあるのかもしれない。

 しかし、ベラルディの本を読む限り、やはり社会の問題を切り離せないようだ。

 ベラルディはこういったダークヒーロー指向の殺人犯たちを、かれがいうところの「絶対資本主義」が必然的に生み出した問題と見ているらしい。

 その是非はともかく、こういった事件が一様に現代社会特有の様相を呈していることには賛成する。

 日本で起こったそういったいくつかのルサンチマン駆動的、かつダークヒーロー指向的な殺人事件に対しては、ディランやエリックと異なり生き残った犯人たちの不気味な供述を中心にたくさんの本が書かれている。

2.『実存的貧困とはなにか』と「黒子のバスケ脅迫事件」。

 そのなかでもわたしが今回、注目したいのは以前の記事でも参照した原田和広『実存的貧困とはなにか』における「黒子のバスケ脅迫事件」に関する記述だ。

 『実存的貧困とはなにか』では、この記事でも触れたように、破滅的な売春行為をつづける女性たちについて、彼女たちに対するフェミニストのパターナリズムを批判したりしながら多くの紙幅を割いて書いてあるのだが、それとともに「自傷的存在証明」として殺人などの凶悪犯罪を行う男性たちについても膨大な量の文章が記されている。

 原田はフーコーやアガンベンといった著名な哲学者の書籍のみならず、ドストエフスキーの『罪と罰』、カミュの『異邦人』といった殺人者の心理に迫った名作文学まで引きつつ、これらの殺人者たちの心理を追いかけているのだが、あまりにその分量が膨大であることから、じっさいのところ、適切な要約や引用は容易ではない。

 何しろ、少なくとも見積もっても通常の本にして十冊分くらいには相当するボリュームがあると思われる本である。

 さらには、著者自身があとがきでその読みづらさを自ら認めているくらい、見方によっては晦渋でもある。以下の記述が相当に断片的なものとなることは許してほしい。

 わたしの文意に不満を感じられた方は、かなり値は張るが、ぜひ、『実存的貧困とはなにか』の実物を読んでみていただきたい。ほんとうに素晴らしい一冊だ。

 さて、この浩瀚な本一巻のなかでも、実際の犯罪事件の分析として個人的に最も興味深かったのが、「黒子のバスケ脅迫事件」の犯人・渡邊博史の著書『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』を考察した箇所である。

 「黒子のバスケ脅迫事件」とは、Wikipediaから引用するなこのような事件だ。

黒子のバスケ脅迫事件(くろこのバスケきょうはくじけん)は、2012年(平成24年)10月から発生した、漫画『黒子のバスケ』(集英社)の作者・藤巻忠俊や作品の関係先各所を標的とする一連の脅迫事件。黒子のバスケ事件とも。警視庁による事件名称は「広域にわたる少年漫画関連箇所を対象とした威力業務妨害事件。2012年10月に作者・藤巻の母校である上智大学で不審物が見つかったのを皮切りに、数多くの企業やイベント会場が脅迫され、イベントの中止等が相次いで発生したが、2013年12月15日に容疑者とみられる渡邊 博史(わたなべ ひろふみ)が逮捕され、一連の騒動は終息を迎えた。

 原田はまず、ギデンズや東浩紀をひきながら、ジャン・フランソワ・リオタールのいう「大きな物語」が失われてしまった「不確実性の時代」としてのポストモダン(ポスト近代)について解説している。

 一方でポストモダン以前の近代については、その本質を「楽観的な進歩史観にある」とし、「人類にとって最も幸せだった時代と言っても過言ではないだろう」と語っている。

 おそらく、その通りであるかもしれない。近代においては、もちろん、現代のようなコンピューター文明や、原子力発電所は存在しなかった。

 しかし、その時代においては人々はまだ「楽観的な進歩史観」や「人間の理性の理念」(東浩紀)を信じられたのである。

 また、立身のための努力がやがて身を結ぶという「メリトクラシー(能力主義)」の神話もまだ有効だった。

 アメリカSFの黄金時代と呼ばれる1950年代のハインライン、アシモフ、クラーク、スタージョンといった作家たちの小説を読んだことがある者は、その独特の雰囲気を理解できることだろう。

 しかし、それらすべてが続くポストモダンの時代においては崩れていくのである。

3.ポストモダンの萌芽。

 原田は小熊英二『1968』の一節を引き、「近代的不幸」と「現代的不幸」という概念を紹介している。

 1968年の時代精神を指摘したその一節とはこうだ。

 「結論から言えば、高度成長を経て日本が先進国化しつつあったとき、現在の若者の問題とされている不登校、自傷行為、摂食障害、空虚感、閉塞感といった『現代的』な『生きづらさ』のいわば端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり、反応した現象であったと考えている」。

 そしてまた、「日本が高度成長によって発展途上国から先進国に変貌していく状況のなかで、当時の若者たちは、戦争・貧困・飢餓といった『近代的不幸』とは次元が異なる、いわば『現代的不幸』―アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの希薄さなど―に直面していた」という文章も引用されている。

 つまり、いまから65年も前の1968年の時点で、すでに「ポストモダン社会の萌芽」は見られていたという主張である。

 そして、いま、わたしたちはそういった「現代的不幸」にとともに、あたかもゾンビのようによみがえった戦争・貧困・飢餓などの「近代的不幸」に襲われている。

 いい換えるなら、「現代的不幸」がいわば『新世紀エヴァンゲリオン』的な「セカイ系の不幸」とするなら、その不幸をそのままに、そこに復活した「近代的不幸」が合わさった『進撃の巨人』的な「新世界系の不幸」を生きることになったといっても良いかもしれない。

 そして、この社会の「二重の不幸」を極限まで突きつめざるを得ない、あらゆる社会的承認から「孤絶」した「実存的貧困」状態の人物が、それでもなお自己の存在価値を証明とするとき、それはしばしば犯罪という形を採る。

 『生ける屍の結末』のなかで饒舌かつ皮肉に自らの犯行動機を語ってみせた渡邊もまたそうだった。

 かれは自らの独自の擁護で自分の犯行心理を説明するので、『生ける屍の結末』を読んでみてもなお、その動機は少しわかりづらいのだが、ひとまず、本人が自分の犯罪は左派言論人たちがいうような経済的動機からの犯行「ではない」と主張していることはたしかである。

 かれは『生ける屍の結末』のなかで、「勝ち組」と「負け組」双方を含めた世間の人々のことを「努力教信者」と語っているのだが、これは原田によれば「新自由主義」に相当する言葉だ。

 渡邊はまた、その「努力教信者」になれなかった者のことは「埒外の民」と呼び、自分はそれであると主張してもいる。

 そして、決して自分が狙った『黒子のバスケ』の作者の経済的成功がうらやましかったわけではない、という。

4.イワン・カラマーゾフとしての渡邊博史。

 しかし、原田は渡邊のその意見に対して否定的である。

 ここでかれはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を持ち出し、とくにその「兄弟」のうちの次男、冷血な背徳者として知られるイワン・カラマーゾフの名を挙げる。

 無神論者であるイワンは、有名な「大審問官」の章において、きわめてロジカルにキリスト教を批判し、神の存在を否定して精神の自由を主張するのであるが、最終的には心を病んでしまう。

 イワンは結局、キリスト教を無視、あるいは超克できなかったのである。

 そう、むしろかれは決してキリスト教の倫理を無視も超克も逸脱もし切れないからこそ、それを徹底的に批判しようとしたのだ。

 原田は渡邊もまた、このイワンと同様であるという。

 渡邊はどれほど「努力教」を批判し否定してもなお、その進行から自由になれていないというのだ。

 かれは書く。

 「イワンがアリョーシャの前でムキになって神を冒涜するように、渡邊も裁判において、自分は「努力教」の埒外にいる人間だ、と宣言するのだが、結局その思想は完全に「努力教」の枠内に捕らわれているのだ」と。

 納得できる意見である。『生ける屍の結末』を読んでいると、その冷笑的かつ虚無的な筆致に辟易するとともに、何か切ない感傷を覚える。

 それは、たとえばひろゆきの少なくとも表面的には徹底された価値相対主義やニヒリズムとはやはり違う。

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 価値を相対化し尽くそうとし、それでもできないこと、新自由主義(努力教)の「埒外」に立とうとしてどうしてもできないことの哀切さがルサンチマンとともににじみ出ているのだ。

5.なぜ三井寿は湘北高校バスケ部を襲撃したのか。

 ここで、原田は意外な作品の名前を出す。『SLAM DUNK』である。

 この作品の序盤に、湘北高校バスケ部のエースとして活躍しながら挫折し、不良生徒と化した三井寿がバスケ部を廃部に追い込むべく襲撃するエピソードがある。

 三井はさんざんにバスケ部を荒らしまわって殴ったり殴られたりするのだが、最終的に恩師である安西先生に再会して泣き崩れる。

 その三井の態度を原田は渡邊に重ね合わせ、このように書いている。

 週刊少年ジャンプのバスケマンガを愛した渡邊であれば、知っていて当然の名シーンが『SLAM DUNK』にある。それは、三井寿の「安西先生……バスケがしたいです」だ。人は本当に欲しいものが手に入らないと悟った時、他者が持つそれを全力で壊そうとする。湘北高校バスケ部を目の敵にし、自分の人生を賭けて廃部に追い込もうとした三井は、実際は誰よりもそこでバスケがしたかったのだ、ということを理解できない読者はいない。自分が真に欲するものを頑なに否定し、逆に憎むという防衛機制を異常な心理だと見做す臨床家もいないであろう。だが、往々にして当人だけは、自己否定に繋がるその気付きにはなかなか至らない。傍目には明確であるにもかかわらず、である。

 よく理解できる。

 三井がほんとうに求めていたのは結局、「バスケ部の廃部」ではなく、「もう一度バスケ部に戻ってバスケをすること」だった。

 同様に渡邊もほんとうは「努力教」の枠内で成功し他者から「承認」されたかったはずなのだ。

 原田は「愛」、「法」、「連帯」の三つの領域すべてにおいて「承認」が欠落している状態を「実存的貧困」と定義しているのだが、その「孤絶」のままで人は幸福に生きていくことはできない。

 その上で、渡邊のようにさらに虐待やいじめといった加害にさらされることもありえる。

 そういったことになった人間は、もはや三井のように「暴力」や「犯罪」といった形で自己を「自傷的」に「存在証明」するしかなくなることがありえるのである。

 三井のほんとうの望みが湘北高校バスケ部に戻りたくてたまらないということだったように、渡邊や、あるいは秋葉原通り魔事件の加藤などの望みも、この社会に迎え切れられて「承認」されたいということだったはずだ。

 しかし、それは絶望的に叶わない夢だった。だから、かれらは最悪の暴力を選択した。

 その選択を愚かと見る人も少なくないだろう。それはその通りではある。しかし、一方でそれが「実存的貧困」という「孤絶」から必然的に導き出された、渡邊の言葉でいうなら「生ける屍の結末」であったことも理解するべきだ。

 同様のことが、違法な上に、ほとんど自傷的なまでに危険な個人売春に走ったあげく、そこで稼いだ金銭をホストなどにあっさりと貢いでしまう女性たちにもいえる。

ホス狂い

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 ネットでは「男性と女性、どちらがどのくらい不幸か」という、「かわいそう論争」が延々と続いているように見えるが、本質的には性別で分けることには意味がない。

 社会的な逆風は男性にだけ、あるいは女性にだけ吹くというものではないのだから。

 それにしても、ここで求められている「承認」とはこの社会において、なんと得がたいものだろうか。

 それも、どれほどそこに大金をつぎ込んでも、売春女性やホストからの「承認」ではダメなのだ。

 なぜか。それは結局、そこでは十分に「他者性」が確立されていないからである。

6.自分から自分への距離は遠い。

 それに関連しているといって良いと思うのだが、臨床心理学研究者の東畑開人のこのようなツイートを見かけた。

 「自分から自分への距離はめちゃくちゃ遠い」。

 つまり、人間は自分を直接に肯定することはできず、まず他者を認め、その他者からも認めてもらうことによって、まるで「世界を一周」するようにして自分のことを認めることができるようになるという意味だと思う。

 じっさいにアクセル・ホネットの『承認をめぐる闘争 社会的コンフリクトの道徳的文法』を読み、該当する記述を探って引用してみよう。

 ホネットはヘーゲルの『人倫の体系』を引きながら、このように語っている(いささか難解ないいまわしなので読み飛ばしてもらってもかまわない)。

 しかも、ぎゃくの推論をおこなってみると、ヘーゲルの考察は、その相互行為のパートナーを一定の人格として承認しないような個体ならば、自分自身もまた完全に、あるいはなんの制約もなくそのような人格として経験することなどできないことを示している。承認関係についていえるのは、この関係においてある程度まで総合性への強制が課されるのだが、相互にであう主体どうしが暴力に頼らずに社会的な相手を一定の仕方で承認することを余儀なくされるというだけである。わたしが相互行為のパートナーを一定の人格として承認しなければ、わたしは相手の反応のなかで自分がおなじように一定の人格として承認されているのをみいだすことはできない。なぜなら、わたしは、まさにわたしが相手によって確証されたと感じるはずの性質と能力を、相手にたいしては否認してしまうからである。

 ようは、だれか自分以外の人を、一切のコントロールが不可能であるという意味での「他者」として認め、その「他者」が「コントロール不可能であるはずにもかかわらず」、自分を承認してくれたとき、初めて人は「自己肯定感」を高めることができるということだ(と思う)。

 逆にいえば、自分がその人格を尊重していない相手、簡単に支配し操作してしまえる相手からいくら承認されても自己肯定感は高まりはしないことになる。

 そこにはいってしまえば厳然たる「他者」が存在せず、「拡張された自己」があるだけだからだ。

 べつのいい方をするなら、こういうことでもある。人は自分とは決定的に異なるだれか、決して自分の思い通りにならないだれかから、それでもなぜか肯定してもらうというありえそうにない奇跡を通してしか、自分自身の価値を確認することができないのだ、と。

 したがって、お金で他者の言葉や身体を買っても、そこで得られる承認では十分ではないのだ。

 三井は結局、バスケ部に戻り、バスケでの活躍を通して恩師・安西から「三井くん。きみがいてくれて良かった」といってもらうことで救われた。

 これこそ、まさに「実存的貧困(「愛」、「法」、「連帯」の三つの領域における三重の貧困)」の人間が求めてやまない真の意味での「承認」である。

 「あなたがいてくれて良かった」。この、「他者」からの本心からの言葉を求めて得られないからこそ、人は、ときとして暴力や依存に向かうのだということ。

 くり返すが、それは、男性であれ女性であれ変わりはない。

7.「心の闇」のなかの光。

 わかる人にはくどくどと説明しなくてもわかってもらえることだろうし、逆にわからない人には目の前に突きつけてもわからないことであるだろう。

 「理由なき犯罪」とされる事件の犯人たちの「心の闇」に光をあてて見えてくるものは、「愛されたい」、「認められたい」という切なるねがいだった。

 その「承認をめぐる闘争」の果てに、人はときとして暴力を選び、破滅する。とくに男性はそうだ。

 ここにはあきらかに性差による行動の違いがある。「実存的貧困」の苦しさそのものは違いはしないだろうが、それが呼び起こすアクションに落差があるのである。

 このことをどう考えるべきなのか、わたしはまだ判断できていない。

 ひとまずいえることは、「愛」や「法」や「連帯」によって社会に包摂された状態のなかでしか人は幸せに生きていくことはできないということである。

 『実存的貧困とはなにか』では、言葉を尽くして愛の偉大さが語られている。宮台真司がいうように「神と性だけが人を救える」として、宗教の権威が零落したいまとなっては、愛という承認によってこそ人は救われる。

 ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフが娼婦ソーニャの愛によって救われるように。

 しかし、愛は決して平等には与えられない。ある人は愛され、べつのある人はまったく不条理なまでに愛されない。それがこの世界の現実である。

 すべて愛を乞う者は、どれほどの美貌、どれほどの富豪であろうとも、その愛の前に裸で跪き、求めなければならない。「わたしを愛してください」と。

 しかし、それでもなお、その人を愛するかどうかはあくまで「他者」たるあいてが決めることでしかない。

 その絶望的なまでに遠く高い「他者」が、それでもなお、自分を認めてくれる奇跡をこそ、人は愛と呼び、承認と呼ぶのだ。

 愛こそすべて。

 その言葉を最後としてこの長い記事を終えたい。最後までお読みいただきありがとうございました。

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