おまえたちが文句ばかりいって一向に読もうとしないから、代わりに『大転生時代』を読んでやったぞ。

 読んでやったのだが――うーん、まあ、そこそこ? いや、読む前は「なろうをメタっているだけで凡庸きわまりない駄作www これだから口だけの純文学作家様ときたらwwwwww」みたいに口汚くののしってページビューを稼ごうみたいな気持ちもちょっとあったかもしれないんだけれど(嘘です)、じっさいに読んでみるとやっぱりそれなりに面白い。

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 ただ、これ、読み終えたからいえるのですが、なろう小説はあまり関係ないんじゃないかなあ。

 最初から最後まで舞台は現代社会だし、「転生」という概念をキーに物語が進むことはたしかであるものの、逆にいうとそれだけのことでしかなく、「なろう小説らしさ」はほとんどない。

 なろう的なものからインスパイアされていることはたしかだとしても、とくになろうに対するパロディ性とか批評性も感じない。いちおうネタバレを避けたうえでいうなら、SFとしてもそこまですごい作品ではないと思う。

 ただ、それなら箸にも棒にも掛からぬ駄作なのかといえばそこまででもない感じではあるので、ぼくの感想は「うーん、普通?」というどうにも煮え切らないものになってしまう。

 しょうじき、「読む前は見下していたけれど、思わぬ傑作でした!」とか「あまりのつまらなさに大草原不可避wwwwwwwwww」みたいなことを書けたら良いと思うのだが、どうもそういう作品じゃないんだよなあ。中途半端ですいません。

 さて、ここでようやくなぜこの本を読んだのかという説明をしておくと、そもそもの発端は市川沙央による本書の書評に起因する。

[blogcard url=”https://bunshun.jp/articles/-/73450”]

 この書評で彼女は堂々たる純文学として、ポスト・ヒューマンSFの傑作として高く評価している。

 それは良いのだが、問題はその前段でいわゆる「なろう小説」を腐しているところ。いわく、なろう的なるものの欲望とは植民地主義的なるそれであり、戦後、アメリカという「異質な他者」と邂逅した日本人が戦後80年にして、今度は自分たちの側がGHQになりたいという想いを発露させたものなのだ、と。

 いやいやいやいや、じっさいにある程度なろうを読んでいる人間からすると、ちょっと苦笑ものというか、さすがにそれはないだろうと思ってしまう話で、予想通りというか大きな反発を受けました。ぼくもまあ違うよなと思う。

 とはいえ、なろう小説の一面を捉えて文学批評的見地から見れば植民地主義的といえることそのものはたぶん間違えていない。というか、いままでもずいぶん指摘されてきたことではある。たとえば、ぼくの友達のペトロニウスさんは2012年の段階でこう書いている。

小説家になろうのサイトは、異世界転生もの
異世界転生ものを支えているチートは、大抵の場合、
主人公自体の肉体等の優越性
異なる文明レベルを落差の利用
が、ベースになっているんだけれども、この二番目のやつって、先を考えてみると、主人公の優越性の奉仕だけの機能であるうちはいいんだけど、物語が長くなってくると、それはつまらなくなるんだよね。それは、多分自律性がないからだと思う。
これって、なんというのかなー批評的に見ると、とでも言おうか、この系統の行き着く先の全体像を考えると、まずは、植民地主義的な視線だ、と言えると思うんだよね。
ようは、野蛮人と文明国の科学技術などの落差を優越性に利用するという意味では、素朴な植民地主義なんだよ。でも、そもそもの出自は、ほとんどのなろうネイティヴは、主観記述、いいかえれば一人称で自分がどう感じたか?といい記述のみで進んでいうことからも、そもそもが、現実で失われている自己の回復がメインなので、その構造を裏打ちするために、その環境をもって来ているので、そこを批判しても、仕方がないちゃーしかたがないんだけれども。

物語三昧~できればより深く物語を...
小説家になろうのサイト分析〜なろうネイティブの問題点の解析 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむ... 小説家になろうのサイトは、異世界転成もの異世界転成ものを支えているチートは、大抵の場合、主人公自体の肉体等の優越性異なる文明レベルを落差の利用が、ベースになって...

 なろうのいわゆる「チート」なるものに異世界文明に対する現代文明の優位性を前提とした 「素朴な植民地主義」の一面があることそのものは、市川さんならずとも、ある程度目端の利く人間ならすぐに思いつくことなのである。

 問題はそれを日本固有の歴史的な問題と見るか、もっと本質的な人間普遍の欲求として見るかで、市川さんが前者の立場を取っているのに対し、ペトロニウスさんはより後者に近い見方をしていると思しい。

 具体的には、柳内たくみ『GATE』アニメ版の記事で、このように記している。

異世界に行ってしまう物語類型の軍隊ごと文明ごと行けるようになって系統の物語です。且つ、自衛隊が、俺ツエェー系です。一言でいえば、自衛隊が補給を確保したまま中世レベルの文明の異世界に干渉する話です。物語としては、この類型の完成形ともいえる作品です。且つメディアミックスの漫画もアニメも、演出レベルが非常に高く、どれを見ても満足できる作品なのでおすすめです。実は、自分の批評的な観点を除けば、物語のカタルシス、登場人物たちの内面の掘り下げ、関係性、物語内部での現実レベルの維持のための演出の首尾一貫さ、などなど★5なのです。

が、僕自身は、感情的にはこの類型の物語が大好きで、すっごいカタルシスと面白さを感じるのですが、しかしながら、常に冷静な批評的な視点で、日本万歳!がベースになっていて、日本以外の国の視点が日本的に歪んで解釈されて、すべてが日本にとって都合よく解釈されている、他国の視点が抜けているこういう類型の問題点を、そのまま無視していいのか!!!といつも胸の中がもやもやしてしまうのです。この系統の物語類型の政治における中国やアメリカとの他国の外交関係の感触が、戦前の日本の大日本帝国の歴史書などを読んでいる時に感じる感触とまるで瓜二つなので、いつも、胸がもやもやッとしてしまうのです。それに拍手喝さいを感じて、感動するので、ああ、僕も日本人なんだなーと思うのですが、冷静な批評的な視点な自分が、それでいいの!?ほんとうにいいの!?って、いつも思うんです。

前にも書きましたがこういう植民地主義的な、文明の格差を利用として「常に上からの目線」で野蛮な波や文明を導いてあげる俺様が強い!という視点の冒険譚は、人類基本の欲望なんです。ヨーロッパ文明が最強を誇ったこの近年数百年には、そういった冒険譚や探検物語、溢れかえっているんです。たとえば、ポカホンタスとジョンスミスの話なんか、まさにそれですよね。アメリカ合衆国の国会議事堂(キャピトルヒル)に巨大な絵画が描かれたりするほどのストーリーですよ。リアル異世界転生チート物語です。まぁ、ポカホンタスと結婚したのは、ジョンスミスとは違うイギリス人でしたけどね。

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『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』  監督 京極尚彦 原作 柳内たくみ  自衛隊が異世界に行っち... 【Blu-ray】" border="0" />評価:★★★★星4つ (僕的主観:★★★★★5つ)異世界に行ってしまう物語類型の軍隊と文明ごと行けるようになって系統の物語です。且つ、自衛隊が、...

 なろう作品(この場合は『GATE』)に植民地主義的色彩が強いことを認めた上で、良し悪しではなく人間とはそのような欲望を抱く存在なのだ、といっているわけだ。

 それでは、ぼくたちはなろうのこの「植民地主義的なる欲望」をあくまで歴史的なもの(GHQになりたい!)と見るべきだろうか、それともより普遍的なもの(『ポカホンタス』!)と受け止めるべきなのだろうか。

 ぼくは、やはり後者に近い意見を採りたい。なぜなら、わかりやすい話、ペトロニウスさんが上記の文章を書いてから十数年経ち、なろう小説をアニメ化した数々の作品は、いまや世界的に受容されているからである。

 英語ではいまや「isekai」なることばが高名な辞書に載ったなんて話もあるくらいで、異世界転生ものを喜んで観ているのは日本人だけではない。

[blogcard url=”https://jp.ign.com/anime/74214/news/isekai”]

 まさかアメリカ人やらフランス人が「GHQになりたい」と思っているはずはないから、なろうの異世界転生/転生ものには国家を超えた魅力があると考えるべきだろう。

 もちろん、そういった欲望に対し、ポリティカル・コレクトネス的にどうなんだ、という批判は成り立つ。それはただ植民地主義根性まる出しで、異世界の「現地人」に対し上から目線で接しているだけではないか、と。

 しかし、なろう小説が純文学ならずエンターテインメントである以上、その根源的な欲望そのものを否定しても始まらない。

 なろう小説(やなろうマンガやなろうアニメ)はあくまで人間の赤裸々な欲望を肯定する。そして、その上でその欲望を俎上に上げて「ほんとうにこれで良いのか?」と考えてゆくのである。まさに、島田雅彦がやろうとしたように。

 そう、すでにさんざん指摘されていることではあるが、今回、島田さんが『大転生時代』でやろうとしたことはべつだんとくに目新しくはなく、なろうのジャンル内で延々とくり返されてきたことがらでしかないのだ。

 同じ分野の先行作品を強烈に意識しつつ、それを批評し、批判し、少しずつずらしてゆく。これは、きわめてジャンル小説的なあり方だといって良いだろう。

 たとえば、推理作家の法月綸太郎が本格ミステリにおけるエラリイ・クイーンの問題意識を取り上げて「後期クイーン的問題」と呼称したことと、本質的には同じことだ。

 つまり、なろうもある「物語の規格」にもとづいたジャンル小説、フォーミュラ・フィクションに他ならないのである。

[blogcard url=”https://twitter.com/i/bookmarks/all?post_id=1838756406184546449”]

 ただ、なろうの場合は公開場所がネットなので、その「進化」は猛烈な勢いで進む。これもさんざんいわれていることなのだけれど、島田さんや市川さんの批判的見解はあまりにも古い。

 ペトロニウスさんが書いたところから数えてもたっぷり十数年は遅れているので、もうなろうはそこから何周もしているものと見なければならない。

 とはいえ、さすが天下の芥川賞作家・市川沙央、文章はでたらめに上手く、「ギブミーチョコレート症候群」などというイヤミなネーミングもじつにいやみったらしい。市川さんのほんとうの意図はわからないが、仮に炎上商法だとするなら完璧だったのではないだろうか。

 もちろん、この記事に対する批判やら罵倒は数知れない。以下はその代表的なものだろう。

[blogcard url=”https://anond.hatelabo.jp/20240925053922”]

 まあ、気持ちはわかるというか、たしかにそうだね、と思わせる記事ではある。

 ただ、こういうベタな批判はそれはそれで必要なものではあるのだろうけれど、こうやって細部をあげつらってみてもあまり建設的な話は生まれそうもないこともたしかだろうと考えられる(べつに建設的な話をしたいわけでもないのだろうけれど)。

 そもそも「「なろう系」を語る批評家って、「なろう系」全然読んでなさそうだな……ということがありありと伝わってくるよね」と批判している当人が『大転生時代』を読まずにこの作品を批判しているわけだから何も変わりはしないように思える。

 いや、読めよ! ちゃんと読もうよ! 2100円+税もする興味もない本を本をわざわざ買って読むのは億劫だということもわかるけれど、やっぱり読まずに批評することは良くない。読んでみて初めてわかることはいろいろあるのだ。

 フリーランスのライターを名乗りながら実態はほぼキモくてカネのないおっさんのぼくですら読んだんだから、まともに暮らしていて収入がある人は読めるはず。

 まあ、ぼくの感想は上に書いた通りだからとくにお奨めするわけではないのだけれど、どうしても批判したいならいちど偏見のメガネを外して白紙の気持ちで読んでみてからでも遅くはない。案外おもしろいじゃん、と思うかもしれないわけだから。

 そういうわけで、市川さんの批評はとくに斬新とはいえないと思うのだが、せっかく話題になったのだから細かい問題を指摘して「はい論破」で終わらせるのではなく、もう少し深いところまで考えてみたい。

 ぼくが今回、とくに興味深く感じたのは、島田雅彦がなろう小説を取り上げて「他者がいない」と語っていることである。市川による書評も基本的にはこの主張を踏まえた上で展開されている。

「現実世界が絶望的にひどくなってきて、若者が転生願望を抱いている。ただ、多様な人格を描いてアイデンティティー問題と向き合ってきた小説家からすると、一連の転生ものの作品は物足りない。そこに『他者』がいないからです。自分しかいない。自分の感情しかない」と指摘する。「他者がいないというのは実は日本的ともいえます。戦争も自己陶酔の中で突き進んだ。現代でも他者を知ろうとしない態度が炎上や差別につながる」

[blogcard url=”https://www.tokyo-np.co.jp/article/354150”]

 あれ、安倍首相暗殺を「良かった」と語って大炎上したのはどこのどちらさんでしたっけ、と思ってしまうようないいぐさではあるが、じつはいわんとするところそのものはわからなくもない。

 なろう小説のような願望充足的な物語は、本質的に「異質な他者」との邂逅が存在しない、そこではつまりは自分自身の欲望を自分自身でナルシスティックに叶えているだけであり、自我と自我の衝突が描写されていないのだ、と。じつはぼくはこれ、理解できる。一理あるとも思う。

 ひとつなろう小説に限らず、広い意味でオタク的な物語は、男性向けであれ女性向けであれ、どこか閉塞した願望充足の一面を持つのである。

 それこそ『異世界迷宮で(奴隷)ハーレムを』あたりは端的にわかりやすいし、聖女ものや悪役令嬢ものでもそうなのだが、そこで描かれているのは無条件に自分の欲望を呑み込んでくれる、母性的ともいえる異性の姿であり、真の意味での「他者」とはいいがたい(ことが多い)。それはぼくもそう思う。

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 オタク文化の「気持ち悪さ」とはそういうところにこそあるのであって、まさにその意味で、なろう小説やアニメは感動ポルノならぬ「愛情ポルノ」とでもいいたいような側面がある。島田や市川はそれに対して、純文学の優位性、批評意識のたしかさを確信しているように見える。

 だが、そうだろうか。くりかえすが、島田が『大転生時代』のなかで描いてみせた程度の批評性は、すでになろうジャンルのなかに内在しているのである。いい換えるなら、なろう小説にもそのような意味での「文学性」はある。

 なろう小説は、SFやミステリがそうであるように、膨大な「メタなろう小説」「メタメタなろう小説」の集積から成り立っているのだ。

 たとえば、『JKハルは異世界で娼婦になった』はなろうで展開されている男性的でマッチョな物語を異世界で娼婦になるしかなかった一少女の視点から切り裂いた傑作である。他にもそういう作品はいくらでもある。

 もっとも、そういった「文学的」「批評的」な作品がなろうの最大の成果であるとは、ぼくは必ずしも思わない。やはり、なろうといえば素朴なチートものでり、ハーレムものであり、悪役令嬢であり、追放ものであり、ざまぁなのだ。

 こういった作品群は、スタージョンの法則めいたいい方を採用するなら、「90%の(なろうの場合は99%ということもありえる)カス」でしかないのかもしれない。少なくとも天才的な大傑作でないことはたしかだ。

[blogcard url=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87”]

 しかし、なろうを読む歓びは、そうはいってもやはり、こういった素朴なカタルシスを備えた物語をはしから読んでいくところにある。決して一部の「非ポルノ的」な作品ばかりがすごいのではないということ。

 もっというなら、そもそも文化のあるべきかたちとは、エンターテインメントとは何なのかということなのである。

 どんな文化も、その頂点の高さはすそ野の広さによって決定される。一部のかがやかしい傑作は、より平凡な「凡作」「駄作」のピラミッドの上にしか成立しないものなのだ。

 そのようなとき、ぼくたちはつい頂点にあって燦然と煌めく作品に目が行ってしまいがちなものだが、じつは山の中腹や下部にあるより平凡な作品たちこそがあってこその山なのである。

 そのような作品たちはしばしば「ポルノ的」で、より「アート的」な作品と比べ、批評的な価値で劣っているようにも感じられる。だが、エンターテインメントとは常にポルノとアートのふたつの顔を持つヤヌスの神なのであり、また、そうでなければならないのだ。

 あまりにポルノ的になり過ぎて批評性を失ったり、あるいはアートに偏り過ぎて「ただのお説教」に成り下がったとき、エンターテインメントはその魅力を失って面白くなくなる。

 ポルノ的なものとアート的(文学的? 哲学的?)なものが混沌と入り混じっている状態こそが理想的なのである。

 とはいえ、文化はあまり長くこの均衡を維持できない。『Fate/Grand Order』であまりにも先鋭化した「異聞帯」が衰退するように、いずれはポルノなりアートのどちらかに傾く。ぼくはそうやってあるジャンルが逼塞するところをたくさん見てきた。

 万物に時が流れ寿命がある以上、それもしかたがないことなのかもしれない。なろう小説も、最近はだいぶそういうふうになってきているようにも感じられるが……。

 話を戻すなら「なろう小説には他者がいない」と語る島田の話は、「ある程度は」正当なところもあるとぼくは思う。

 しかし、「他者性」とは「ある/ない」といった二元論で語れるものではない。エンターテインメントがつねにポルノとアートのあいだ、オープンとクローズの狭間で揺れ動いているものである以上、ある程度、他者に対して開かれた作品もあれば、まさに自分の欲望に自閉しているとしか見えない作品もある。それが実情だ。

 ぼくはそういった作品が混然としている状況こそがエンターテインメントの理想だと思うのだ。

 ただ願望充足に終始するだけではつまらない、かといって上から目線の道徳的お説教もくだらない。それらすべてが混ざり合ったカオスこそがエンターテインメントの、あるいはもっと広く人間の文化というもののほんらいあるべき姿なのではないだろうか。

 島田や市川は「純」文学の高みからなろうを批評する。しかし、文学だの異性交遊だのというものは、少しくらい不純なほうが面白いのである。少なくともぼくはそう考える。

 だれに見られても恥ずかしくないきよらかなおつきあいだけが恋愛ではないように、文化も爛熟や頽廃や、ちょっとひとには見せられないような気持ち悪い不純な欲望を孕んでいてこそ面白いってこと。

 さて、以上は、文春オンラインに書いたりしたら即刻削除されるだろうぼくのでたらめな独自研究である。

 この「研究」のために、ぼくは一定のお金と時間と労力を使った。そのわりに(アフィリエイトで入るかもしれないいくらかの収入を除けば)何も実入りはない。

 だれか、お仕事ください(涙)。それに尽きる。

 ちなみにいま、なろう的な作品を読みたい方には『オルクセン王国史』と『ニセモノの錬金術師』がお奨めです。両者とも「なろう的」なるものの可能性を突きつめた傑作で、とくに後者は「社会的弱者としてのチーター」を描いていて興味深い。

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 あと忘れていたけれど、『異世界車中泊物語』も良いですね。

 なろうに批評性が内在しているとはつまりこういうことなのです。えらい人にはそれがわからんのですよ。

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