C105新刊頒布の準備がととのいました。

 コミケまであと一週間を切りました。同人誌『山本弘論』の入稿は終わり、ポスターや名刺といった小物の準備が進行中です。

 はたして数日後のぼくはそこそこ本が売れてほくほくしているのか、それとも大量に売れ残った在庫の山をまえに切歯扼腕しているか、微妙なところですね(ちなみにこの四字熟語、「せっしやくわん」と読む。歯を食いしばったり腕を握り締めてくやしがること)。

 まあ、1冊も売れないことはないと思うけれど、刷った100冊がぜんぶ売れてくれるかはかなりきびしいラインになるのではないかと。後で通販することを考えると、コミケでは20冊くらい売れてくれれば良いかなあという見込み。

 じっさい、それさえも売れるかどうかはわからないわけなのですが。みんな、当日はブースに遊びに来てね! どうせヒマしているだろうから……。

 で、前回の記事に続いて『山本弘論』で書き切れなかった内容について考えているのですが、そこにはなかなか奥深いテーマがひそんでいる感じです。

 「論理的に考えるなら、必然に倫理的に振る舞うことにもなる」という山本さんが良く書く主張を突き詰めていくと、倫理学における「義務論」と「感情倫理学」の対立に行きあたることは以前にも書いたと思うのですが、さらにさらに考えつづけていると「ゲーム理論」と「社会契約説」やら、「ホモ・エコノミクス」と「行動経済学」やら、「ホッブス的秩序問題」やらといった学術的なテーマがあらわれてきて困惑させられます。もう一朝一夕に語り切れない感じ。

 特に面白いのは、ルソーなどの「感情倫理学」において道徳感情の元になっているとされる「ピティエ」と呼ばれる概念。これ、日本語では一般に「憐れみ」と翻訳されるのですが、いろいろ読んでみたところ、これは、誤訳ではないにしてもあまり正確に意味を表現できた訳語ではないらしい。

 「ピティエ」とはつまり「だれかの感情を自分のことのように感じ取る」能力、共感の感覚を指しているというのですね。だから上から目線の憐憫とか同情とは少し違うわけです。

 で、この説明を読んでぼくが思い出したのが『ドラえもん』のなかの有名なエピソード「のび太の結婚前夜」。

 この作品のなかで、結婚前夜のしずかちゃんのお父さんがのびたを評して語る「あの青年は、人の幸せを願い、 人の不幸を悲しむことができる人だ」。これこそ、まさに「ピティエ」を端的に表した言葉といえるのではないかと思うのです。つまり、のび太は道徳感情の人なのですね。

 そういう「ピティエ」がともなっていることが人間社会を成立させるためには大切だといわれているのですが、山本さんはそうした人間的な感情を抜きにして利益だけで計算しても倫理は成り立つはずだと主張するんですよね。

 このことをかれの言葉を使って表現すると、「論理的なのであれば、必ず倫理的にもなるはずだ」ということになるのですが、まあとにかくかれは倫理を感情的な問題に押し込めることを拒絶したと見て良い。

 山本さんの代表作『アイの物語』では、それが「真の知性(トゥルー・インテリジェンス)」としてのAIというかたちで出てくるし、『神は沈黙せず』では「物語の外部に存在する神(=作者)」が悪役に「天罰」を下します。

 つまりはまさに「神は沈黙せず」物語のなかに顕現しているわけなのですが、これは山本SFの魅力と限界を同時に示しているというのがぼくの見て取ったところです。

 アーサー・C・クラークのオーバーロードなどもそうですが(『幼年期の終り』)、山本さんのAIは超知性であるにもかかわらず、どこかに素朴さを感じさせてしまう。

 「人間的に」何らかの言葉を話させるとどれほど異質なはずの存在であっても結局は人間にしか見えないという問題がここにある気がします。それを防ぐためにはレムの『ソラリス』のように、まったく超言語的な何を考えているのかわからない存在に仕立て上げるしかないのでしょうね。

 いつかは社会学や経済学の言葉を引用しつつ「山本弘論【完全版】」を書いてみたい気もしますが、その日が来ることはあるかなあ。チャンスがあるとすれば電子書籍でしょうが、とりあえずいまは刊行の予定はありません。まあ、出るとしてもそうとう先のことでしょうね。

 では、皆さん、コミケでお逢いしましょう!

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