フリージャーナリストである佐々木俊尚さんの「「不快なもの」をなぜ社会から除外してはならないのか」と題するnoteが面白かった。
タイトルの通り、だれかが不快に感じるものであっても社会から排除してはならないとする論旨の記事。
ネットの情報を「プル(自ら引っ張ってくるもの)」とプッシュ(向こうからこちらにやってくるもの)に分け、かつてプルであったものがいまはソーシャルメディアの発達によってプッシュになって来ていると語っています。
その結果、人々の「不快なもの」との遭遇率は劇的に向上し、「不快なもの」を排除しようとする世論も高まっていると。
非常に良く納得できる話です。しかし、それではなぜ「不快なもの」を排除してはならないのでしょうか? 「不快なもの」などないほうが快適な社会になって良いのでは?
もちろん、それはひとつには、何を「不快」と感じるかが人によって違っているからでしょう。
俗に「萌え絵」と呼ばれている絵柄がまさにそうですが、ある人にとってかぎりなく不快に感じられるとしても、べつの人にとってはきわめて大切なものであるというようなことがありえるのです。
あるものを「不快」と感じる人がいるからといって、そういったものをことごとく排除していったなら、社会はあっというまに不毛の荒野と化してしまうはずです。
いや、そういった荒野のほうが良いと感じる人もいるかもしれませんが、そういう人にも大切なものはあり、それを焼かれることは好まないものです。
結局、「不快なもの」を排除しようとする理屈の前提になっているものは、すべての表現や情報を「快/善/有益」と「不快/悪/有害」に分けられるという素朴な二元論に過ぎない。
じっさいには佐々木さんがいうように「すべてのものは影響しあっている」のであって、「ここからここまでは良い表現。その先は悪い表現」などと区別することはできないわけです。
佐々木さんは書いています。
さまざまな表現からすべての悪影響を排除しようとすると、あらゆるコンテンツを排除しなければならなくなる。それは価値観をひとつに染めていってしまうことであり、完璧にコントロールされた全体主義への道でしかありません。
おそらくはそうでしょう。しかし、その種の全体主義には強烈な魅力がある。社会のすべてを自分が信じる「善」で塗り固めてしまいたいと考える人は大勢います。それはほんらい、リベラルな「多様性」と対極にある考え方であるはずですが……。
もちろん、そういった「きれいな全体主義社会」では、人は「不快なもの」と遭遇せずに済むかもしれません。
すべての人が心正しく、清く美しく、差別もなく、貧困もなく、一切の「汚らしいもの」が排除された世界。それはひとつの理想的なユートピアではあるでしょう。
あるいはいま、「リベラル」や「フェミニスト」を僭称する人たちはそういう理想郷を望んでいるのかもしれません。しかし、歴史はその種の左翼的なユートピア思想が逆に地獄を生み出してしまうことを語っています。
ぼくたちはあくまで敢然と全体主義的ユートピア幻想を拒否し、多様性のある社会を実現していかなければならないわけです。
そのために「不快なもの」もある程度は受け入れていかなければならないでしょう。それが、ほんらいのリベラリズムという思想であるはずです。
また、これも佐々木さんが書いているのですが、「不快なもの」は文化の源泉でもありえる。
多くの場合、人が不快と感じるのは、悪いものであったり、汚いもの、正しくないものです。しかし、そういったダーティーなところからこそ、ほんとうの文化は生まれてくるわけです。
そもそも「善」と「悪」をきれいに分け、「善」なるものだけを良しとするような単純素朴な思想からたいした文化は生まれて来ません。
むしろ、真に人を惹きつける文化は、どうしようもなく「悪」や「汚濁」を混沌と孕んでおり、その「悪」の濁りこそが、文化に熟成した深みを与えるものではないでしょうか。
ただただ幼くきれいなだけの心からは高邁な文化は生まれない。少なくとも大人を惹きつける深みのある文化はそうでしょう。
ある文化がうつくしく花を咲かせるためには、どうしても肥沃な養土が必要なのです。
もちろん、その一方で、そういった「悪」が社会をおびやかすことは避けなければならない。その意味では、文化とは、「悪」と直面し、「悪」をコントロールするためのひとつの方法論なのでしょう。
佐々木さんは、ひと握りの「高尚」なものを生み出すためには、「低俗」なものがたくさん必要なのだ、といういい方をしています。
まさに真理です。「低俗」とは、必然的に「悪」を孕んだものであり、その意味でどこか社会秩序に対する挑戦とならざるを得ない。そういうことなのだと考えます。
これは都合の良い「反権威主義」とか「ロックスピリット」といった次元に留まりません。
一見すると穏やかでうつくしい文化表現とは、社会秩序そのものを破壊してしまいかねないような強烈な情熱、激情とどこかでつながっているものだということ。そういった部分を除外したなら成り立たないものだということ。
ぼくたちはその真理を直視しなければなりません。
しかし、それでは、ただ不快な「悪」を並べ立てれば優れた表現が成り立つのかというと、もちろんそうではない。
文化は、人の心にひそむ「悪」を取り出して表現の養分とする。しかし、そのとき、ただ無邪気に「悪」を扱うべきではない。
自分が扱っているものがいかに悪く、むごく、凄惨なしろものであるかは十分に理解していなければならないと感じます。そうでなければ、単なるありふれた露悪趣味以上のものにはならないでしょう。
もちろん、そういった「単なる露悪趣味」もまた、より優れた表現の養分になりえるのですが。
つまり文化にはつねに上澄みとしての高尚と、それを支えるすそ野としての泥水がある。泥水がない世界では、新しい才能が出てくる機会はたいへん小さくなってしまいます。
参入のハードルが低く、誰でも入ることのできる泥水がやはり必要なのです。それでも大半の人は才能がなく消えて行くでしょうが、そういう玉石混淆の中から、キラリと光る「玉」が見いだされていくのです。
これはひとつ文化の話というより、人間世界全体の真実でしょう。何かうつくしいものが成り立つとき、その背景には「泥水」といいたいような「不快なもの」がある。
だから、人間世界からその「不快なもの」を取り去ってしまうことは、きわめて危険なことなのです。
『風の谷のナウシカ』のクライマックスで、ナウシカはなぜ清らかな新人類を焼き払ってしまったのか? そこにはクリーンなものとダーティーなものを分けないという哲学がある。
ナウシカは人類を救おうとした旧世界の科学者たちを指していいます。
「その人達はなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそが生命だということに。」
「苦しみや悲劇や愚かさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから。だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに。」
「清浄」と「汚濁」を分けることはできない。混沌こそがこの世界の実相であるということ。それは、「善」と「悪」を分けることもまたできないということでもあります。
さらにいうなら、そもそも、人間の心に「悪」が宿っていることは、完全に否定するべきことなのでしょうか? つまり、人の心には「悪」などないほうが良いに決まっているのか?
これはむずかしい問題です。良くぼくが例に挙げる作家の山本弘さんは、「スカンクの誤謬」という言葉を使って、「悪の心を持つ人間は不完全な存在である」ことを語っています。
僕は昔からSF小説やマンガなどで、ロボットがあまりにも人間そっくりに思考し、人間のように喋るのに反発を覚えていた。人間と同じように考えるなら、それはすでに人間じゃないかと。
ロボットと人間の違いは、単にボディが金属でできているかどうかではないはずだ。最大の相違点は心のあり方の違いではないのか。
彼らに「ヒトと同じになれ」と要求するのは無意味である。ロボットはヒトにはなれない。たとえば性的欲求や種族維持本能を持たない彼らに、恋愛感情や母性愛というものが芽生えるとは思えない。
それでも彼らは心を持つはずだと、僕は信じる。「心」とは「人間そっくりに考えること」ではないはずだ。
作中に登場する「スカンクの誤謬」とは、『鉄腕アトム』の「電光人間」というエピソードで、悪役のスカンク草井が口にする台詞から来ている。
「アトムは完全ではないぜ。なぜなら悪い心を持たねえからな」
「完全な芸術品といえるロボットなら、人間とおなじ心を持つはずだ」
この言葉は、「完全なもの」=「人間と同じもの」という誤解に基づいている。実際、多くの人がそう考えている。ヒトは万物の霊長、進化の頂点にある。進化を続けるロボットにとって、ヒトは到達すべきゴールであると。
そんなことはない。ロボットにとって、ヒトはゴールでもなければ、通過地点でもない。ロボットにはロボットの進む道があり、ゴールがあるはずだ。
実際に遠い未来、ロボットたちがこの小説で描いたようなゴールに到達するかどうかは分からない。これもまたフィクションだからだ。だが、こういう結末を迎えて欲しいと、僕は切に願うものである。
しかし、ほんとうにそうでしょうか?
もちろん、一般論として人間が「完全なもの」であるとはいえないでしょう。ロボットにそれを目ざさせるべきではないのかもしれません。
ですが、手塚はそもそも『ナウシカ』的な「善」と「悪」を明快に区別することはできないという立場から、スカンクに「悪い心」を持たないアトムを「完全ではない」といわせているのだと思うのです。
その意味で山本さんの批判は一面的でしかない。我々人間はどうしようもなく「悪なるもの」を抱えて生まれてくる。それは人間の宿命であり、そのことを直視するところにしか成熟はありえない。
つまり、ある意味で、我々は人格の成熟のために、「悪」を必要としている。「悪い心」があってこそ、我々は十全な人間になることができる。
そして、文化とは、表現とは、その「悪」と向き合い、「悪」を制御するやりかたでもある。即ち、「悪」は人類の一部であり、故に「悪い心」が生み出す「不快なもの」は社会の重要な構成要素であるということ。
「悪」は我らが危険な友人です。しかし、この友人と関係を絶とうとすることは、より大きな危険につながっている。ぼくはそのように捉え、受け止めています。
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