先日、芥川賞作家・市川沙央が現代の「異世界小説」を語った記事がちょっと話題になった。
https://bunshun.jp/articles/-/73450
そのなかで、市川は『異世界食堂』などの「異世界料理もの」に「日本スゴイ」の欲望を見て取っている。
いずことも知れない異世界の人間たちが、現代日本の料理に舌鼓を打ち、興奮し、絶賛する様子を描くこの手の作品は、その実、テレビなどで発信されているナショナリスティックな「日本スゴイ」番組と何ら変わらないということだろう。
一理ある。というか、じつは料理ものを含む現代文化礼賛的なウェブ小説に「日本スゴイ」的なるものを見る視点は、何年も前から存在したのだ。
話は変わりますが、異世界に近現代のテクノロジーを持ちこんで主人公が活躍するエンタメって、どこか「日本スゴイ」に似てませんか。
インターネットでは、テレビでよく見かける「日本のモノ・テクノロジー・カルチャーはスゴい」系の番組や視聴者への揶揄をよく見かけます。なぜ、「日本スゴイ」系の番組と視聴者が揶揄されなければならないのでしょう?
「スゴイのは日本のモノ・テクノロジー・カルチャーであって、視聴者のお前ではないから」という声や、「日本の良いところを抽出して、わざわざ余所持ち込んで自惚れているから」という声が聴こえてきそうです。
それなら、異世界に近現代のテクノロジーを持ち込んで無双している作品や視聴者も、同じように揶揄されて、残念に思われてもおかしくないのではないでしょうか。
一読、正論かと思われる。
異世界ものの主人公が、現代の知識や科学技術といった「チート」をもちいていくら活躍しても、それはその主人公が偉いわけではなく、そういったインテリジェンスやテクノロジーを開発した人が偉いに過ぎない、そういう理屈は成り立つだろう。
もちろん、それはあからじめ物語のなかに仕組まれた視点でもあり、だからこそ、それらの知識や技能は「チート」と呼ばれるわけなのだ。
また、こういった発想は異世界ウェブ小説以前からあったものでもあり、ぼくなどは山田風太郎往年の傑作『海鳴り忍法帖』などを思い出したりする。
この作品では、超絶的な天才兵器開発技術者である主人公が、戦国時代にマシンガンやミサイル(!)を開発し、敵対する数万人もの忍者たちとすさまじい戦いを繰りひろげる。
「現代文化スゴイ」といえばいえるような小説ではあるのだが、それにしてもあまりにも発想が凄すぎて、それどころではないという印象を受けてしまう。
風太郎のいわゆる「忍法帖」のなかではなぜかあまり高く評価されていない「埋もれた」作品だが、ぼくはめちゃくちゃ面白いと思う。未読の方にはオススメである。
まあ、だから、とにかく過去の文明のなかに現代の技術を持ち込んで無双するというのは、必ずしもめずらしくないアイディアなのだ。
しかし、それではこういった「チート」な異世界ものの作品の魅力とは、「日本スゴイ」「現代文化スゴイ」と自画自賛するその単純な構図にあるに過ぎないのだろうか?
あるいはそうなのかもしれないが、じっさいに小説やマンガやアニメでこの種の作品にふれてきたぼくの実感からすると、少しズレて感じられることもたしかである。
そもそも、もし「異世界料理もの」の真髄が「日本スゴイ」と語ることにあるのなら、日本料理のスゴさを何よりもまず語ろうとすることだろう。だが、現実にはこの種の作品の代表格である『異世界食堂』でも『異世界居酒屋のぶ』でも、とくに日本料理にこだわっている様子はない。
「現代日本の料理一般スゴイ」といっていることはたしかなのだが、そこで展開している思想はやはり「日本スゴイ」とは少し違っているように思えるのだ。
それなら、いったいぼくたちは異世界の人々が日本の料理に感嘆する様子を見て何を楽しんでいるのだろう? これは、意外にむずかしい問題とも思われる。
さて、幾何学の問題においては、一見して複雑に見える問題であっても、一本の補助線をひくといっきにわかりやすくなることがある。ここでぼくもまたひとつ補助線をひきたい。
その線の名は『侍タイムスリッパ―』。ことし、単館上映から始まり、口コミで「めちゃくちゃ面白い」と人気に火がついて、いっきに全国に広まっていった低予算映画の傑作である。
タイトルからもわかるように幕末のサムライが現代にタイムスリップするというお話なのだが、そのなかにそのサムライが現代のショートケーキを食べてあまりの美味さに感動するという場面がある。
これは構造的にはまさに「異世界料理もの」とまったく同じシーンだといえそうだ。過去の人間が現代日本ではあたりまえの品を食べ、そのあまりの美味しさを絶賛する。ほんとうにいままで何度となく見てきた場面である。
だが、これは現実に映画館で見てみるとしみじみと感動的な場面だった。そこに描かれてあるものが、あきらかに「日本スゴイ」とか「現代文化スゴイ」といった次元に留まるものではないことがはっきり実感としてわかるのだ。
どういうことか。つまり、そこで描写されていたものは、ぼくたちが「あたりまえ」と思い、すっかりその便利さ、快適さに麻痺している現代社会の文明が、その実、ちょっと視点を変えてみるといかに貴重でかけがえのないものであるかという、「再発見のセンス・オブ・ワンダー」なのである。
そもそも、SFやミステリの真髄とされるこういった「センス・オブ・ワンダー」とは、ぼくたちがあたりまえだと思い込んでしまっているもの、ふつうで退屈で、どうということはないと評価しているものをべつの視点から眺め、その価値をふたたび見いだすところに真髄がある。
それはかつて、詩人にして作家にして宗教であったチェスタトンが「正統(オーソドックス)」と呼んだ思想の表れであるのだ。
真の意味での驚異の感覚とは、決して奇を衒った意外性にあるのではなく、じつはどこにでもありふれた「ふつう」の光景こそが最も異常なのだ、という「気づき」を意味している。
したがって、異世界料理ものの面白さも、ただの「日本スゴイ」にあるのではなく、ぼくたちがふだん当然に消化している「ふつう」の料理が、ちょっと見方を変えてみるといかにスペシャルな品であるのかという「気づき」を促すところにあるといえるのである。
どこの料理屋でも食べられるただのコロッケの、その信じがたいような美味さ! 居酒屋に入ったら「とりあえず」頼んでみる酒に過ぎない平凡な生ビールが、じつは現代文明の象徴ともいえるような壮大な輸送技術なくして成り立たない事実!
数々の異世界料理ものが気づかせてくれるのは、現代日本のあたりまえは決してあたりまえなどではないという、まさにその真実なのだ。
かつて、天才詩人・金子みすゞは「不思議」という詩のなかでこう詠った。
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀に光っていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだと、いうことが。
ぼくたちの感覚は大人になればなるほど鈍麻し、「誰にきいても笑ってて、あたりまえだと、いうこと」の不思議さを忘れてしまう。だが、ほんとうは世界の偉大な秘密は一個のコロッケ、一杯の生ビールにも宿っている。
異世界料理ものの面白さは、その忘却された事実を思い出させてくれるところにある。
それは、異世界という視点を得て初めて感じることができる「食」の感覚であり、そしてそもそも「食べる」とはどういうことなのか、他の生きものを殺し食べて自分が生きることにどのような意味があるのかを問い詰める『ダンジョン飯』のいかにも宮沢賢治的な視点へとつながっている。
それを「日本スゴイ」といえば、たしかにそうかもしれない。しかし、ただそれだけではないこともまた事実である。
ある小説に、マンガに、何を見いだすかは人それぞれだ。できるだけ豊かな実りを見いだして楽しみたいものだと、心から思う。それこそ、ひとつのコロッケを十全に味わい尽くすように。
その姿勢こそが、優れた物語を「いただく」者のあるべき作法だと思うのだが、いかが。