【ある弱者男性の告白】
トイアンナさんの著書『弱者男性1500万人』から、一部が公開されている。
以前にも書いた通り、この本、基本的にはいままでフォーカスされなかったところに光をあてたなかなかの良書だと思うのだが、一方でひとりの弱者男性であるぼくとしては、いっそ面白いくらい共感がない内容でもある。
この本に登場する弱者男性たちひとりひとりはたしかにつらい境遇にあるとは思うのだが、ぼく自身は同じような状況にあってもとくにつらくないので、エンパシー(他人と自分を同一視することなくその人の気持ちを汲むこと)はともかく、シンパシー(他人と感情を共有すること)が湧かないのだ。
もちろん、ぼくが共感できないからといって、即座にかれらの不幸がニセモノだということにはならない。じっさい、本人は大変なのだろうとは思う。
また、男性であっても社会的弱者の立場に置かれているひとであれば何らかのサポートが必要なことは理解できる。
しかし、最も広い意味で弱者であることがイコールで不幸せを意味するかというと、それは違うだろう。
あしたの食べるものにも困るとなどということならそれは大変だし、ひきこもりでへやから一歩も出られないなどといったら不幸かもしれないが、ここでいう「弱者」とはそこまで極端な状況を意味しているわけではない。
それなら、それなりの幸せを見つけだすこともできそうに思うし、じっさいぼくはそうしているつもりである。
だから、「結婚できないオジサンに人権なんかない…生きているだけで冷遇される「弱者男性」の悲痛な叫び」というこの記事のタイトルを見ても、「え、ありますけど?」としかいいようがない。
この記事に登場するある弱者男性は、このように語っている。
俺らみたいな下位オスができることって2つしかなくて。ひとつは諦めて死ぬ。もうひとつは自分がアルファになることです。ナンパ師みたいな人たちって、必死で整形して、服全部買い替えて、話術も鍛えてて、すごいですよ。(ナンパ師を)バカにする人もいるけど、結局セックスできてるのはどっちだ、って話なんです。
非常に極端な価値観である。ここでは、幸せとは「アルファオス」になること一種類しかないとされる。
男に生まれたなら、アルファオスになれれば幸せ、「下位オス」に終われば不幸。わかりやすいといえばわかりやすい話だ。しかし、ほんとうにそうだろうか。
【結婚して三人子供を作って育てることが「男の幸せ」?】
話はさらに続いている。
――「女性から選ばれない」ことが、そこまで不幸感につながっているのはどうしてだと思いますか。
40代も後半になったらわかりますよ。毎日同じ仕事をして、割引になった惣菜買って、安い焼酎を買って……って繰り返してみなさいよ。同級生は3人目の子どもが生まれて、家を買って、小学校の卒業式の写真をアップしてるんですよ。
それを見ながら酒を飲んで、ソシャゲのログボ(定期的にゲームを起動することで得られる特典)だけ回収して、クソして寝る。このどこに幸せを見いだせって言うんですか。今さら趣味のサークルに顔を出したって、公園でただ日向ぼっこしてたって、下手すりゃちゃんと金払って居酒屋で飲んでても、俺みたいなのは不審者ですよ。
いいっすか、独身のおっさんに人権なんかないんです。そこにいるだけで怪しくて、やばいんですよ。だからこのインタビューを見てくれる人には言いたいですね。死ぬ気でスペック上げろ。女を抱け。そうしないと人生終わるって。
まったく納得がいかない。
ここにあるものは、いってしまえば「結婚して3人子供を作って家を買い、小学校の卒業式に出ることが「男の幸せ」であり、独身の男性に幸せなどあるはずがない」という価値観だ。
いまどき、結婚して子供を産むことこそが「女の幸せ」なのであり、そうではない生き方はかわいそうだ、などといったら非難轟々だろうと思うが、ここではまさに臆面もなく「結婚こそが男の幸せ」論が語られているわけだ。
いったいいつの時代の価値観だろう、と首を傾げてしまう。昭和的というか、超保守的な考えかたである。
もちろん、個人の価値観として結婚して子供を作ることに幸せを見いだすことは問題ない。ぼくも、それはそれで幸せのひとつのかたちだろうとは思う。
しかし、この「松尾さん」がいっているのは、一般論としてそれ「だけ」が幸せなのであり、それを手に入れられなかったら死ぬしかない、ということなのだ。
ぼくには、じつに偏狭で、もっとはっきりいってしまえばいかにも古くさく、他愛ない発想であるように思える。
べつに結婚しなくても、子供を作らなくても幸福になることは可能だし、じっさいそうなっている人はいくらでもいるだろう。
「松尾さん」が不幸せだとすれば、それはべつのところに理由があるのではないか。
【インターミッション】
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それでは、続きをどうぞ。
【そのものさしを捨ててしまおう】
さて、続き。
ぼくには、「松尾さん」がどうしても幸せになれない最大の理由は、かれじしんの価値観にあるように思える。
結局のところ、偏ったものさしで幸せを測るから、偏った結論が出てしまうのだ。
もし、ほんとうに幸せになりたいのなら、この価値観を捨ててしまうのがいちばん近道なのではないだろうか。それはここで否定的に語られている「男らしさから降りる」ということとニアリーかもしれない。
べつだん、「男らしさ」がいつも「有害」だとも思わないが、もし、それが本人の幸せをむしばんでいるのなら、そんなものは捨て去ってしまったほうが良いだろう。
とはいえ、この記事で書かれていることによると、「男らしさ」を捨てることは「構造的に」不可能である。なぜなら、「男らしくない」男はモテないからだ。
結局のところ、異性愛者にとっての恋愛とは「男と女ごっこ」の一面があるのであって、「男は男らしく、女は女らしく」していないと好かれないのである……。
なるほど、一理ある。くだらないといえばくだらないかもしれないが、じっさい、恋愛とはそういうものでもあるだろう。
いかにもげんなりするような話ではあるが、じっさい、ハイスペックな男性(「アルファオス」)のほうが一般にモテやすいことは一面の事実である。
しかし、ぼくは思う。べつにモテないのならモテないでもかまわないのでは。もしセックスしたいのなら風俗店へでも行けば良いのだし、たぶんそのほうが手っ取り早く快楽を得られるはずだろう。
それでは何か不足なのだろうか。もちろん、不足なのだろう。ひっきょう、ここで求められているものは性行為そのものではなく、「女性に不自由しないアルファオスのオレ」というアイデンティティだからである。
「下位オス」が不幸だとすれば、それは女性とセックスできないからそうなのではなく、「女性とのセックスに不自由している下位オスのオレ」という自覚こそがその理由であるはずだ。
そのように考えると、やはり、「結婚して家族を養うアルファオスであることこそが「男の幸せ」」というその価値のものさしこそがすべての元凶なのでは、と思えてくる。
女性にモテないことそのものが不幸なのではない。「女性にモテないことは不幸だ」と思い込むことこそが不幸なのである。
【「いわゆるまとも」という幻影】
もちろん、愛する妻と子供に恵まれ、社会的にも高い地位に就き、経済的にも十分な額を稼いでゆっくりと老いてゆく。そういうタイプの幸せもあるだろうとは思う。
だが、それは無数にありえる幸福のかたちのなかのひとつであるに過ぎないのだ。それ「だけ」が幸せだとはまったく思わない。
ぼくたちは長い人生において、いろいろなことを願い、ときに叶え、ときに挫折する。だが、成功だけが幸せであって失敗すると不幸なのだというものではないだろう。
ロックアーティストになる夢を叶えられたら幸せだが、なれなかったら不幸せだなんてばかげている。そういった基準で幸不幸を語るなら、満足に幸せになれる人なんて百人にひとりもいないことになるのではないか。
たしかに、勝利や成功をめざす気持ちはわかる。異性からちやほやされたいという想いも理解できる。しかし、だからといって、それが実現できるかどうかで幸せのすべてが決まるかといったら、そんなことはないだろう。
人生とはそんな薄っぺらなものではないはずだ。もし、そんな、それこそ「動物的」な欲望がすべてだとすれば、そもそも人生は生きるに値しないのではないか。
あたりまえの日常のなかにも、ささやかな幸せはいくらでもありえる。
コンビニで150円で買えるシュークリームはいまやとびきり美味しいし、やはり安価に購入可能なレトロゲームや古典映画のなかにも傑作はいくらでもある。図書館に通えば古今の名作は読み放題だし、月額1000円のサブスクリプションに入ればありとあらゆる音楽が聴き放題だ。
「このどこに幸せを見いだせって言うんですか」。どこにでも見いだせるだろう、とぼくは思う。歪んだものさしで測っているから正しく測れないのだ。
こういう話を聞くと、ぼくは麻雀マンガの傑作『天』のクライマックスにおける描写を思い出す。
死を目前にした天才雀士アカギは、後輩のひろに語る。「まとも」で「正しい」人生なんて存在しない。そんなものは無視して良い、と。
ぼくもそう思う。「いわゆるまとも」な「男(オス)の幸せ」だけが人間らしい幸せだなんて、あまりにも狭く、くだらないではないか。人が生きることとは、そんなつまらないものではないはずだ。
人生には成功もあるだろうし失敗もあるだろうが、「生きること」そのものに意味が、価値がある。それなのに、ぼくたちはときに「正しい、成功した人生」という蜃気楼を探し求めてしまうのだ。
まあ、それもひとつの生き方ではあるだろうけれど、そこにしか幸福がないと思い込んでしまうと、人は簡単に不幸になる。もっと自由で気軽で良いのだ。そう思う。そう信じる。
「結婚と子育てこそが男の幸せ」なんてあまりにもばかばかしい。そう、思いませんか。