おとぎの国を統べる〈魔法〉とはなにか。
むしろ、占い的な世界観価値観(それはしばしば宗教的な感覚に近いものがあるとは言え)を持ちつつも、価値判断偏重に陥らないという姿勢に名前をつけられたらいいと思うのだが。
— dainmt@占いおじさん (@dainmt) 2024年7月24日
これ、ほんとになんか欲しいすよね。英語ならenchanted lifeとでもいえそう、、
— 鏡リュウジ (@Kagami_Ryuji) 2024年7月24日
さて。
これは秘密なのだが、じつはぼくはきょう、46回目の誕生日を迎え、46歳となることになった。
46年! おお、ひとりの死すべきさだめの定命の者(モータル)として、まことにおどろくべき長い時を生きたといえよう。えっへん。
そこで、この記念すべき奇跡の日にあたって、ひとつ、世界の秘密について書き記しておくことにしたい。それは、つまり、この世界は魔法で動いているということである。
ああ、書いてしまった。これで、この驚くべき真理は世界に知れ渡ってしまうことだろう。あしたには世界はまったく違う場所に変わっているに違いない。しかし、真実をいつまでもかくしておくわけにもいかない。
それに、これはぼくが個人的にいい出したことではなく、過去の偉大な詩人作家がいい遺したことでもあるのだ。その人物の名前は、G・K・チェスタトン。
本格ミステリ小説の読者なら、この名前を知っていることだろう。名探偵ブラウン神父の生みの親にして、ミステリにおける最も基本的なトリックやロジックを発明した人である。
そのチェスタトンは、20世紀初頭において、卓抜なエッセイ「おとぎの国の倫理学」のなかで、魔法について書いている。
チェスタトンはいう。ほんとうはおとぎの国こそ論理的であり、科学の国は非論理的なのだと。世界的に有名なかれの「逆説(パラドックス)」だ。どういうことなのか、ちょっと見てみよう(チェスタトンの文章は詩人らしく一文が長く入り組んでいるので、引用に際していくらか改行を加工することを許してほしい。内容は変わっていません)。
おとぎの国では「法則」という言葉は使わない。ところが科学の国では、みんなこの言葉が特別お気に入りのようである。たとえば、今は死に絶えた昔々の人びとがアルファベットをどう発音していたか、面白い仮説を作って「グリムの法則」と呼んでいる。しかし、グリムのおとぎ話のほうが、グリムの法則よりはよほど理屈として筋が通っている。お話のほうはともかくも話であるが、法則のほうは実は法則でも何でもない。いやしくも法則と言うからには、一般化ということの本質と、法則化ということの本質を正確に知っていなければならないはずである。
たとえばこれが、スリは牢屋に入れるべしという法律の場合なら、話はなるほどよくわかる。スリをするという観念と、牢屋に入るという観念との間には、なるほどある種の精神的関連のあることはわれわれにも理解できる。人の物を自由にする奴は、なるほど自由にはさせておけぬ道理である。
けれども、なぜ卵がヒヨコになるかというような問題になると話は少々変ってくる。この問題は、なぜ熊が王子に変ったかという問題と同じくらいむずかしい。純粋に観念として見るならば、卵とヒヨコの関係は熊と王子の関係よりもっと無関係である。卵にはヒヨコを連想させるものは皆無であるのにたいして、王子の中には熊を連想させる例もなくはないからだ。
さてそこで、ある種の変身というものが現に起こることは認めるとしても、大事なことは、おとぎの国の哲学的方法によってこの変身を見ることである。科学といわゆる自然法則の、まことに非哲学的方法によって見ることは断じて許されない。では、なぜ卵は鳥になり果実は秋に落ちるのか。その答は、なぜシンデレラの鼠が馬になり、彼女のきらびやかな衣装が十二時に落ちるのか、その答とまったく同じである。魔法だからである。「法則」ではない。われわれにはその普遍的なきまりなど理解できないからである。必然ではない。
なるほど実際には必ず起るだろうと当てにはできるが、しかし絶対に起らねばならぬという保証はまったくないからである。普通はそういうことが起るからといって、それがハックスリーの言うような不変の法則の証明だということにならぬ。われわれはそれを当然のこととして当てにすることはできない。われわれはそれに賭けているのである。
おやつに食べるパンケーキには、いつ毒が入っていないともかぎらない。巨大な彗星がやって来て、いつ地球を粉々にしないともかぎらない。たとえその確率がどれほど小さくても、ともかくわれわれはいつでもその危険を冒して生きているのだ。いつ奇蹟が起こって、当たり前のことが当たり前のことでなくならないとは誰にも断言できはしない。どんなに小さな確率でも、われわれがいつもその危険に賭けていることは変わらない。われわれが普段はそれを考えないで暮しているのは、それが奇蹟であり、したがって起こりえないことであるからではなくて、それが奇蹟であり、したがって例外にほかならないからなのである。
科学で使う用語はみな「法則」にしろ「必然」にしろ、「順序」にしろ「傾向」にしろ、すべて本当は意味をなさぬ。みな内的な連関、統一を前提にした言葉だが、われわれにはそういうものは本当に理解はできないからである。自然を説明する言葉として、私が納得できた言葉はたった一つしかない。おとぎ話で使う言葉だ。つまり「魔法」という言葉だけである。
何をいっているのか、と思われるかもしれない。「法則」という言葉に意味がないとは! 愚昧な宗教家が、科学の論理を否定して悦に入っているだけだと感じられても無理はない。
だが、ぼくはむしろ、これはきわめて良く科学の本質を理解した発言だと感じる。
わかりやすく説明しなおすと、「科学の国」で使われる言葉は、あくまで蓋然性(プロパビリティ)にのっているはずだ。
たとえば、あしたの朝も太陽が昇るというのは、歴史的に観測された結果であり、ほとんど、つまり九割九分九厘以上の確率で、確実に起こるといえる。これが科学の発見した「法則」であるわけだが、チェスタトンにいわせれば、それはとんだセンチメンタリズムに過ぎないのだ。
なぜなら、いかに可能性が小さいとしても、あした、太陽が昇らない可能性は、厳密な事実として存在するからである。かれは、「科学の国」は、「おとぎの国」と違って、そのあからさまなファクトを見逃しているという。
「おとぎの国」においては「りんごが木から落ちること」はつまり奇跡であり、魔法であるが、「科学の国」においては「法則」であるに過ぎない。
そういった「科学の国の論理学」を習得したぼくたちは、朝、太陽が昇るなど、あまりにもあたりまえな、つまらないほどのことがらだとみなすだろう。それどころか、宇宙の運行すべてをひとつの機械的必然とすら考えるに違いない。
しかし、チェスタトンの「おとぎの国の倫理学」ではまったくそうではない。現実に朝、太陽が昇ってこない可能性はあり、ぼくたちはそうではない可能性に賭けて生きているのだから、陽が昇ることはひとつの勝利、そしてひとつの奇跡なのだ。
つまり「おやつに食べるパンケーキには、いつ毒が入っていないともかぎらない。巨大な彗星がやって来て、いつ地球を粉々にしないともかぎらない。たとえその確率がどれほど小さくても、ともかくわれわれはいつでもその危険を冒して生きているのだ」というわけだ。
どうだろう、この理屈をくだらぬ詭弁だと思われるだろうか。しかし、厳密に科学的にものごとを考える人ほど、こういったロジックを否定はできないはずだ。
そもそも、科学とは、この世界のありとあらゆるできごとに不思議を見いだす感覚、つまり「センス・オブ・ワンダー」に根差しているものなのではなかったか。
それが、「何か不思議なことなど、十分に蓋然性が少ないのだから、起こるはずがない」としてこの世の不思議(wonder)を否定してしまうのは、どこか本末転倒に思われる。
もちろん、こういった発想をたとえば統計学の観点から批判することはできるかもしれない。しかし、チェスタトンがいっているのはそういうことではないのである。
かれは、つまりこの世界のものごとを「あたりまえ」とみなして退屈する態度そのものを批判しているのだ。それは、あるいは科学的態度のほんとうの魅力そのものなのではないだろうか。
この世界の一切を「あたりまえ」だと当然視して考えるところには、科学的な好奇心は発生しない。一般人が「そんなの、あたりまえのことじゃないか」と思うところに疑問を感じ、常識を疑って真実を探るところにこそ真の科学精神はあるはずである。
そうだとすれば、「空から雨が降る? 東から太陽が昇る? なんだつまらない。そんなこと、あたりまえじゃないか」といって済ませてしまうような発想は「堕落した科学精神」というべきではないだろうか。
ぼくはよく引用するのだが、夭折した詩人の金子みすゞは次のような詩を残している。
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀に光っていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだと、いうことが。
「私は不思議でたまらない」――本来、すべて科学はこのような好奇の感覚から発露するものなのではないか。ぼくはそのように感じる。
金子みすゞがチェスタトンのことを知っていたとは思えないが、じつに彼女はかれと同じところに立っている、どうもぼくにはそう思えるのである。
そしてつまりこれがチェスタトンの「正統(オーソドックス)」の哲学であり、日本でもさまざまな保守派論客に多大な影響をあたえている思想なのだ。
つまり、かれはこういわんとしているのだろう。この世界、大自然のなかのあらゆるできごとは、純粋に論理的にいって「あたりまえの法則」などで動いているわけではなく、その一瞬一瞬が魔法であり、奇跡であり、勝利なのであって、驚異と讃嘆に値するのだと。
思う。この「驚異の感覚(まさにセンス・オブ・ワンダー!)」を失うということが、つまり心が若々しさを喪って老いるということなのだと。
世界は本来、つねに若く、みずみずしい。硬直していくのは、人の心のほうなのだ。そして「あたりまえ」とみなされるような「正統」のできごとに驚きを感じられる若い心を失くした人は「異端」に逃れる。ただ奇異だったり、ものめずらしいものをありがたがるわけである。
それだって、チェスタトンにいわせれば、「平凡なことのほうが非凡なことよりよほど非凡」なのであるが。
かれの見方では、しょせん、「異端」とは「正統であること」に喜びを見いだす自然な心を失くしてしまった人が至る境地でしかないのだ。
チェスタトンはしんらつに科学を否定しているが、ぼくにいわせればかれの態度こそは「真に科学的」なものだ。ただ教科書を丸暗記して「当然だよ、当然」とうそぶくどこかの学生の態度が科学的であるはずはないではないか。
「世界体験(宮台真司)」と真の意味で科学的な姿勢。
記号を覚え、
数式を組み立てることによって、
僕らは大好きだった
不思議を排除する。
何故だろう?
さて、ここで見方を変えて考えてみよう。占星術研究家の鏡リュウジという人がいて、この人物が『占いはなぜ当たるのですか』という、一部の人が眉をひそめるようなタイトルの本を書いている。
このタイトルの時点で、すでに「占いなんて当たるはずがないだろwww」という嘲笑の声がきこえてくるようだ。だが、待ってほしい、この本で紹介されているのはそのような次元の話ではない。
そもそも「占いが当たる」とはどういうことなのか、ユングの「シンクロニシティ」論を引いて語られているのである。
ユング。またあやしげな名前が出てきた、と思うかもしれない。じっさい、「シンクロニシティ」などという話はそれこそ科学の観点から見れば、「ただの偶然だよ」としかいいようがないものだろう。
そしてまた、じっさい、ぼくもユングが出している現象はただの偶然にしか過ぎないだろうと思うし、鏡リュウジさん自身もそのことを認めている。
しかし、重要なのは、その「ただの偶然」になにか意味があるのかもしれない、というその「感覚」にこそあるのだ。自分という小さな「個」と宇宙という巨大な世界がどこかで照応しているかもしれないという感覚。ひょっとしたら、世界にかくされた秘密の一端にふれたのかもしれないという「驚異」の念。
それが人をして宇宙を「あたりまえの必然で動かされたただの一個の機械」ではない生きた存在と感じさせる。
いちばん上のポストで鏡さんたちがいっている「占い的に生きる」とはそういうことなのだと、ぼくは認識している。
かれは書いている。
自分の星座、自分の星がある。シンプルな星占いでも、そのことを十分に告げてくれる。その瞬間にはるかな宇宙が「あなたのもの」として立ち現れる。人が忘れがちな、宇宙とあなたとのつながりが浮かび上がってくるのである。
星占いは、たしかに科学ではない。それは大宇宙と小個人が「照応」しているはずだという一種のシンクロニシティの論理であるに過ぎず、あまり信じすぎることは考えものだ。
だが、その信頼性から十分な距離を保って「自分がこの宇宙にあること」そのものに驚異を感じつづけることは最も原初的な意味で科学的で、そして宗教的な感動といって良いだろう。
この本の解説で、宮台真司はドイツの高名な物理学者ヴァイツゼッガーの体験を引いて語っている。かれはある晩、満点の星空を見ていたところ、この世界が存在することそのものが奇跡だという感覚に襲われ、戦慄したというのだ。
世界がそこにある、あたりまえといえばこの上ないほどあたりまえなそのことに、驚きを感じ取る感性。どうだろう、これこそはチェスタトンがいう「正統」の感覚ではないか。
ここで宮台はこのような体験を「世界体験」と呼んでいる。かれの主張はこうだ。
この種の「世界体験」は、宗教的志向へとつながる一方で、科学的志向にも動機づける。例えば相対性理論のように「世界」を単純な原理で記述できるようになればなるほど、なぜ「世界」がE = mc²であってE = mc³でないのがかが問題化する(拙著『サイファ覚醒せよ!』参照)。
すなわち「世界」が法則的に記述できることが明らかになればなるほど、なぜ別の法則ではなくその法則によって支配された「世界」があるのかという「端的な事実」――原初的な偶発性――が浮かび上がるのだ。この「端的な事実」に驚くことが「世界体験」に相当する。
本書の末尾で鏡さんは、「世界」があるという「端的な事実」に、あるいはそうした「世界」に自分がいるという「端的な事実」に、子供のように驚くという「世界体験」へと人々を導くことこそが、占星術の本質的な意義なのだと述べる。なんと驚くべき洞察だろうか。
占星術は当たるのか。イエス。それは人々の「世界体験」の法則性をうまく掬い挙げているということだ――。ではなぜ当たるのか。それは「世界」が存在するという奇跡、「世界」の中にあなたが存在するという奇跡を、「世界」があなたに告げ知らせるからだ――。
ここまで書けば、ぼくがいいたいことをわかってもらえると思う。ここで宮台が書いていることこそは、チェスタトンが「魔法」と呼んだものなのではないかということである。
そしてぼくたちはその「魔法」を、「世界体験」を生きることができるはずだということでもある。
もちろん、ぼくたちのほとんどは毎朝、陽が昇ることに感動するほど若くはいられないかもしれない(チェスタトンによると、神さまはそのような若さを保っている)。
しかし、たとえばチェスタトンがいうところの「お伽噺」を読むことで、そのフレッシュな感覚を取り戻せるはずだ。
その「お伽噺」は、現代ではSFとかミステリとかホラーとかファンタジーとか主流文学などと呼ばれているかもしれないが、何であれ同じことである。
大切なのは、いかにも「あたりまえ」とされていること、この世界があり、自分が生きていることそのものが「不思議」であり、「奇跡」であり、「魔法」なのだという「端的な事実」を再体験すること。
それができるなら、むしろあやしげな「オカルト」や「スピリチュアル」にハマることもなくなる。オウム真理教のような新興宗教の類に救いを求める必要もないだろう。多くの場合、それらはしょせんチェスタトンがいう「異端」の発想に過ぎないからだ。
――などということを、自分の誕生日を迎えるにあたって考えてみたのだが、納得がいっただろうか。ぼくはだいたいいつもこのようなことを考えているのだが、めったに人に伝わったと感じることはない。つらい。
ちなみにもっとこういう話を読みたいと思う人は、『ヲタスピ(上)(下)』という電子書籍を読んでください。20万文字にわたってこの手の話が書いてあります。
この世界は魔法で動いている――その真実を、見つめよう。この世界で物憂いけだるさにとらわれることなく生きるためには、まさに魔法(Magic)の論理(logic)こそが必要なのだ。ぼくは、心からそう信じるものである。