テレビアニメ『無職転生』の第二期を見ている。
第一期はハイレベルの作画と何とも「わかっている」演出で「小説家になろう」発の異世界転生もののなかでも傑作と名高かったが、この第二期も面白い。
いや、フィッツ先輩、最初から正体を明かしてしまうのね。まあ、原作でもバレバレだったけれど……。
とにかくいわゆる「なろうアニメ」のなかでは出色の出来なので、原作を読んでおられない方もぜひ見てみてほしい。オススメ。
原作もマンガも読んでいるので一応は筋立てを知っているのだが、それにしても不思議なストーリーだよなあと思うのだ。
長いあいだ「なろう」でランキングトップを維持していたくらいで面白いことはまちがいないのだが、この作品の魅力がどこにあるのか、明確に言語化することはむずかしい。
ただ、何といっても興味深いのは主人公であるルーデウスのキャラクターだろう。ルーデウスは「前世」においてはひきこもりのクズ人間だった青年である。
かれは異世界に転生したあと、「今度こそ本気で生きる」ことを誓って新しい人生に乗り出すのだが、さまざまなトラブルに見舞われ、かならずしも順調にはいかない。
しかし、そのなかでしだいに「家族」や「恋人」ができ、家族を何よりも大切にするように成長していく。
それはいってしまえば「王道」の展開なのだが、注目に値するのは時折、「ターニングポイント」と呼ばれるショッキングなエピソードが挿入され、それまでの物語の流れを断ち切ってしまうことだ。
この「ターニングポイント」エピソードは全編で合計五回くり返されるのだが、そのたびに物語の様相は激変する。そして、それらはいずれも理不尽なまでに困難な試練なのである。
そう――そうだな、何となくこの作品の魅力を言語化できそうな気がしてきた。
『無職転生』はどんなに積み木を高く積み上げてもそのたびにあっけなく崩されてしまう「リアリズム」の物語であり、だからこそ「優しい」。それがこの作品の強みなのだ。
ぼくたちが生きているこの現実世界は、いくらでも理不尽なことが起こりえる世界である。
もちろん、それは人間の目で見れば理不尽だということに過ぎないのであって、世界の側から見れば何もおかしなことはないのだが、少なくとも多くの人々にとっては、この世界がアンフェアに感じられることはたしかだ。
この世界では善行を行っても善果があるとは限らないし、また、悪行を働いても天罰が下ったりすることはない。
世界は人間の倫理や善悪とは別個に屹立しているわけである。『無職転生』は、この現実から目を逸らさない。
ルーデウスは五度の「ターニングポイント」において、そのつど、この世の不条理にさらされるのだが、それらはいずれもかれのそれまでの人間的努力を一瞬で無効化してしまう性質のものである。
いわば、神の指先が人間がどうにか積み上げた積み木をあっけなく崩し去ってしまうことと似て、このでたらめな事件はつよく印象に残る。この世の真理がそこにある、と思うからだ。
さながら「不条理」を追求したカミュやサルトルの実存主義文学のおもむきといって良いのではないだろうか。
しかし、もちろん、あくまでエンターテインメントであるこの作品は、ただ「この世は不条理だ」と嘆いて終わることを良しとしない。
ルーデウスはかぎりなく理不尽なできごとが起こるたび、どうにかそのトラップから立ち上がってふたたび行動を開始するのである。
そのアクションは感動的だし、心を打つ。だが、一方でどこかのターニングポイントの時点でかれが死んでいてもおかしくないこともたしかだ。
そして、かれはそのようなイベントのたびごとに「優しさ」を学んでいるように思う。
この場合の「優しさ」とは「寛容」といい換えても良いだろう。もともとが救いようがないダメ人間であるルーデウスには、悪人やクズをも一概に切り捨てない襟度の大きさがある。
かれにとっては、どのようなろくでもない人間も「自分もまたそうだったかもしれない」姿として見えるのだろう。
かれはべつだん、悪人を退治することをためらうわけではないのだが、どこかその「悪」に自分の姿を見ているのではないかと思われるようなところがある。
実存主義文学としての『無職転生』は、高度にリベラルな寛容概念に繋がっているわけである。
それはどこかで同時代の『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』といった残忍で苛烈なストーリーと連続している「優しさ」の描写だと思う。
ぼくにとっては、そここそが『無職転生』の第一の魅力だ。ちなみに二番目はロキシー。三番目がエリス。
一方で、「小説家になろう」には「ざまぁ系」と呼ばれるような作品群も存在する。具体的には、このようなタグが付けられた作品たちのことだ。
小説家になろうをはじめ、カクヨム、エブリスタといった小説投稿サイトで頻繁に目にするようになった「ざまぁ」というタグ。
これが「ざまぁみろ」から来ていることは、ほとんどの人が感覚的にピンと来ると思われ、そこから復讐劇の物語に用いられているタグだと想像するのもそう難しくはないでしょう。
実際「ざまぁ」のタグを付けている作品は、その多くが復讐を描いた物語です。
しかし、ざまぁ=復讐劇という訳ではありません。
ざまぁ自体は元々、ジャンルを示すものではなく要素を示すもので、主に「主人公を苛めていた悪役が報いを受ける」「偉そうにしていたキャラが失脚する」といった因果応報、或いは「あまり好感の持てない恵まれていたキャラが不幸になる」のようなスカっとする展開に対して用いられるタグでした。
ジャンルはどうあれ、これらの要素が作中にある場合は「ざまぁ」がタグとして使用されていたのです。
ぼくがこのような作品を読んで思うのは、これは「公正世界信念」の発露なのではないか、ということだ。
公正世界信念とは、この世界は公正な場所であると信じようとする考え方のことで、より詳細にはこのような概念を含む。
「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。一方、公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する非形式的誤謬をおこし、「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する犠牲者非難をしがちである。例えば「自業自得」「因果応報」「人を呪わば穴二つ」「自分で蒔いた種」など、日本のことわざにもこの公正世界仮説が反映された言葉がある。
つまり、『無職転生』の「ターニングポイント」で示されるようなこの世の理不尽さには「それでも、何らかの意味がある」と考えることが公正世界信念なわけである。
ざまぁ小説では、善人は報われ、悪人は裁かれる。まさにざまぁ小説の世界はある種の「公正世界」といって良いことになるが、それは公正であるがゆえに不寛容である。
ざまぁ小説の世界においては善はどこまでも善で、悪はどこまでも悪に違いないのだ。
「例外」はいくらでもあるにせよ、基本的にはそこにあるものは、徹底した勧善懲悪であり、因果応報に他ならない。
しかし、そもそも善とは何で、悪とは何なのだろうか? ざまぁ小説においては「婚約破棄」が最大の悪として描かれることが多いが、ほんとうにそれは裁断に値するほどの悪行なのだろうか。ぼくはかなり疑問に思う。
たしかに婚約者がいるのに他の女性を好きになったりすることは道徳的に良くないかもしれないが、人の心はどうしても移り変わるものだ。
見方を変えてみれば「ざまぁ」される側にもかれらなりの正義と正当性があるのではないだろうか。
しかし、ざまぁ小説でそのような「視点の転換」が行われることはめったにない。なぜなら、その世界は公正だから。その人に天罰が下る以上、悪は悪なのだということになってしまう。
ざまぁ小説は楽しく読めることはたしかなのだが、そこには「理不尽さが欠けているがゆえに理不尽さ」がともなう。
たとえば有川浩の小説などを読んでいても、ぼくは同じことを思う。
有川の小説では、ある種の仲間同士の間でのスウィートな恋愛が描かれる一方で、そこから排除された人間は徹底して陰湿に、邪悪に描写される。
「いやな奴」はどこまでもどこまでもいやな奴でしかなく、ほとんど人格があるように描写されない傾向があるように思う。
そこにあるものも、ある種の公正世界信念ないし公正世界願望なのではないだろうか。
それが悪いというわけではない。世界は人間にとってかぎりなく不公正だが、一方で人間は正義と公正を求めて「社会」を築き上げてきた。その意味では公正世界の小説は「社会的」なのである。
また、『水戸黄門』ほど極端ではないにせよ、エンターテインメント小説はどこかで公正世界的でなければ読んでいられないこともたしかだろう。
「それがこの世界の真実の形なのだから」といってひたすらにいやなことばかり起こる小説をわざわざ読みたいと思う人はそう多くないのである。
こういった公正世界小説の極北として、たとえば『南総里見八犬伝』がある。
作者の曲亭馬琴はこの小説を仁義礼智忠信孝悌という儒教道徳にしたがってひたすらに善が悪を退治するストーリーにしたてあげた。
そこに見られるものは現実を無視した一種のファンタジーとしての公正世界である。人の心には、どうしても公正世界を望む一面があるのだ。
たとえ、現実はそうではないとさらさら知り尽くしているとしても。むしろ、そうであるからこそ。
『無職転生』は公正世界信念と冷徹な現実認識の間でうまくバランスを取っていると思う。
その内容はいま、「なろう」で大流行しているざまぁ小説と対極的とも思え、非常に興味深い。
実存主義文学としての『無職転生』と公正世界信念としての「ざまぁ」小説、と分けてしまうといくらか単純すぎるだろうか。
いずれにせよ、『無職転生』のような小説が長らく「なろう」のような場で人気を博してきたことは面白い。それが単なる「例外」なのか、そうではないのか、さらなる分析が必要になるだろう。
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