『人魚姫』の「ほんとうの結末」を知っていますか? ファンタジー小説から失われた魔法について。

 アンデルセンの『人魚姫』についてはだれでもご存知なことだろう。賛否両論を呼んだディズニー映画『リトル・マーメイド』の原作である。

 しかし、その『人魚姫』に世間では知られた悲劇的な結末の「続き」があることまで知っている人はどのくらいいるものだろうか。

 べつだん、「続編」という意味ではない。そうではなく、そもそも世間的に認知されている『人魚姫』の物語は終盤の描写がカットされたシロモノなのだ。

 原典のクライマックスでは、人魚姫はあわとなって消え去ったかと思われたそのとき、空気の精ともいうべき不死の存在と化す。

 その時、お日様が海からのぼりました。その光は、死のように冷たい海のあわを、おだやかに暖かく照らしました。人魚姫はすこしも死んだような気がしませんでした。キラキラ光るお日様の方を仰ぎますと、なか空に、幾百となう、すきとおった美しいものが漂っていました。それをすかして、むこうに船の白い帆や空の赤い雲が見えました。そのすきとおった美しいものたちの声は、そのまま美しい音楽でした。けれども、そのきよらかな音楽は、魂の世界のもので、人間の耳には聞こえません。ちょうど人間の目が、その姿を見ることができないように。翼がなくても、空気のように軽いからだは、ひとりでに空中に浮かんでいるのでした。人魚姫は、自分のからだも同じように軽くなって、あわの中からぬけ出て、だんだん上の方へのぼって行くのに気がつきました。

 美しい悲劇に水を差すまさに蛇足の展開、と思われるかもしれない。

 じっさい、そういう風に判断されるからこそたいていの『人魚姫』のバリエーションではこの結末は削除されているのだろう。

 しかし、ぼくにいわせれば、これこそファンタジーである。ここで描かれているこの世のことわりの「外」なる世界への飛翔、あるいは上昇は、ファンタジーのロジックでしか描けないものだと思う。

 この現実世界の他にも世界はある、というほのかなあこがれにつらぬかれた展開。

 何ともアンデルセンらしい、そして「ファンタジーらしい」物語というしかない。

 すべてのファンタジーなる物語の根幹には、この「彼岸への憧憬」があると思うのだ――と、センチメンタルにいい切ってしまいたいのだが。じっさいのところ、最近、「ファンタジー」に分類されている小説などを見ていると、それも遠い過去になったように思われることもたしかである。

 ファンタジーは変わった。特にいわゆる「なろう小説」を読んでいると、「はたしてこれをファンタジーと呼んで良いのだろうか?」と悩ましく思うことも少なくない。

 念のためにいっておくと、ぼくはなろう小説を好きで読んでいる人間だ。なろう小説に関する電子書籍も書いている。

 しかし、それでもなお、そこを貫徹している論理は、クラシックな意味でのファンタジーとはまったく違うものであるように思われてならないのだ。

 そういえば、先日、Twitterを読んでいたら、このようなツイートを発見した。

 まさに理不尽としかいいようがない文句だが、実のところ、ぼくはこの「法則性や制約があるならそれは魔法じゃなくて科学なんだ」という難癖がいわんとしているところがわからなくもない。

 そう、本来、魔法とはあたりまえの論理に捉われないもの、「もうひとつの論理」によって動く神秘なのだ。

 「あとマジックポイント(正確にはマジックパワーというらしい)が7だからホイミは二回使えるな」的な発想は、あまりにも「魔法らしくない」。

 そこには、魔法という概念にともなう不思議さとかおどろおどろしさといったものが致命的に欠落している。

 もちろん、それが一概に悪いわけではない。『十二国記』は徹底して整然とロジックが組まれたひとつの人工世界を創り出すことによって名作となった。そのような例は他にもあるだろう。

 ただ、『指輪物語』とか『ナルニアものがたり』とか、『ゲド戦記』といった古典的なファンタジーが好きだった者としては、今日のファンタジー小説に何かもうひとつ物足りないものを感じることもたしかなのである。

 そこには、アンデルセンがわざわざ人魚姫の悲劇に付け足したような「どこか、ここではないところ」へのあこがれが存在しない。

 「小説家になろう」を読んで満たされるものはセックスやバイオレンスの欲求ばかり。何というか、あまりにも「身も蓋もない」。

 もちろん、それはそれで十分に面白い(ものもある)のだが、つい、「昔はこうじゃなかったなあ」と思ってしまうことは否めない。

 つまり、クラシックなファンタジーはいま、ほとんど絶滅危惧種と化しているのだ。

 と、こう書いても、じっさいにそういったファンタジーを読んでいない人にはピンと来ない話であるに違いない。

 しかし、ぼくがファンタジーだと思っていた小説、幻想と神秘と魔法と「どこか遠いところ」へのあこがれに満たされた文学が死を迎えつつあることはたしかなようだ。

 いまとなってはかつて薄明や黄昏になかにたゆたっていたミドルアースやアースシーには煌々とスポットライトがあてられ、すべてはあからさまに照らされている。

 もはや神秘だの、魔法だのといったしろものは喪われた。残されたものは、ドラゴンという名のオオトカゲや、魔法という名の手品だけ。

 そう、それはそれとして魅力的だし、面白い。しかし、ぼくはなくなってしまったもの、決して万人向けではありえない「ファンタジー」という名の宝石を名残り惜しくも思うのである。

 ファンタジー小説の大家として知られるアーシェラ・K・ル・グィンは「エルフランドからポキープシへ」と題するエッセイのなかで、キャサリン・カーツのある小説を取り上げ、その会話の数か所を変更することで現代を舞台にした小説に変えてしまうという意地悪なことをやってのけている。

「彼らが最終的に成功をおさめるか否かは投票を操作するケルソンの個人的な手腕によっているだろうか」
「彼にできますか」モーガンはたずね、ふたりは足音高く階段をなかば下って庭に入っていった。
「わからんな、アラリック」ナイジェルは答える。「彼は有能だ――おそろしく有能だ――だが、わたしにはまったくわからない。しかも、評議会の主力な長たちは君も知ってのとおりだ。ラルソンは死んだも同然、ブラン・コリスは実質的に公けに告訴をしているに等しい――どうもうまくないようだ」
「カルドサでそのことをお伝えすることもできたのですが」

 この文章を、彼女は以下のように書き換えた。

「彼らが最終的に成功をおさめるか否かは投票を操作するケルソンの個人的な手腕によっているだろうか」
「彼にできますか」モーガンはたずね、ふたりは足音高く階段をなかば下ってホワイト・ハウスの庭に入っていった。
「わからんな、アラリック」ナイジェルは答える。「彼は有能だ――おそろしく有能だ――だが、わたしにはまったくわからない。しかも、委員会の主力な議長連は君も知ってのとおりだ。ラルソンは死んだも同然、ブライアン・コーリスは実質的に公けに告訴をしているに等しい――どうもうまくないようだ」
「ポキープシでそのことをお伝えすることもできたのですが」

 つまり、この小説はただ固有名詞を「ファンタジーっぽく」装飾してあるだけで、実質的には現代小説と何ら変わりないといいたいわけである。ル・グィンは書いている。

 どうも、どこかで話が狂ってしまったようです。最初に引用した作品は英雄だの魔法使いだのといった道具立てにもかかわらず、ファンタジーではありません。もしこれがファンタジーであれば、四か所の言葉を変えるという汚ないトリックにかけることはできなかったでしょう。ペガサスの翼をそうやすやすと切り落とせるはずがありません――それが本物の翼であるなら。

 ぼくにはル・グィンのようにある作品を取り上げてはっきりと「ファンタジーではありません」といい切るような勇気はない。ライトノベルもなろう小説もやっぱりファンタジーだと思う。

 しかし、それがファンタジーであるということの意味は、古典的なファンタジー、トールキンやルイスや、ジョージ・マクドナルドや、そして偉大なロード・ダンセイニが書いた幻想の文学とはまったく異なっていることはたしかだろう。

 クラシック・ファンタジーは「象徴の言葉」で物語を紡ぐ。

 これはいわゆる「メタファー」のことではない。「この物語のなかでのドラゴンはじつは暴力の邪悪さを表わしている」といったことではないのだ。

 そうではなく、ファンタジーにおけるドラゴンとはドラゴンであると「同時に」火そのもの、エネルギーそのものの化身にして象徴であり、単なる「火を吹く大きなトカゲ」ではないということである。

 しかし、このシンボル性は想像力のコピーを重ねた結果、ほとんどなくなってしまった。いまとなっては、ドラゴンやエルフに神秘を感じる人などいないだろう。

 ダンセイニが『エルフランドの王女』や『魔法使いの弟子』を書いた頃にはたしかにあったものはもうどこにもなくなってしまった。まさに魔法の時代は終わってしまったのだ。

 それは時代の必然であり、しかたないことではある。いつまでも過去に拘泥していては老害になるばかりだ。

 しかし、ぼくのなかの一部、もっとも年老いて頑固な部分は、それでもなくなってしまったものを哀しく思い出す。

 かつてファンタジーにあった切なさ、おどろおどろしさ、格調高さ、そういったものを「あれは良かったなあ」と回想せずにはいられない。

 『ロード・オブ・ザ・リング』は名画ではある。しかし、ハリウッドの最新技術ですら映し出せないもの、まさに魔法としか呼びようがないものが『指輪物語』にはある。

 わかる人にはわかることだし、わからない人にはいくら説明してもわからないだろう。魔法とはそういうものだ。

 たいしたビジネスにはならないかもしれないが、ぼくは、その思い出を抱えてこれからも生きていくことだろう。

 そう――少年の頃、ぼくはたしかに遥かなる彼岸の魔法の国に生きていたのだから。

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