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同人読者がどくさいスイッチを押すとき、あるいは「庵野、殺す!」の犯罪心理学。

「あきらめるもんか」彼は低声で言った。「聞こえるか? ぜったいにあきらめないぞ」

スティーヴン・キング『ミザリー』

【非論理的な妄説なのか?】

 はてな匿名ダイアリーに投稿された「同人女として、男性サークルへの毒マロが理解できてしまうので解説する」と題した記事が話題になっている。

 というか猛批判を受けて大炎上している。燎原を焼き尽くす猛火のごときいちめんの火の海、とでもいうべきか、すさまじいまでの燃えっぷりである。

 まあ、それはそうだろう、というべき内容なのは間違いない。このダイアリーの書き手、つまり「増田」は、何の権利があってのことか「同人女」全体を代表してある種の暴論を展開している。

美しいものだけで構成された美しい作品を、現実の男が作っててその男の姿まで知ってしまったら、その絵・作品を見るたびサークルスペースで見てしまった作者男の映像が頭の中で再生されてしまって、その生々しさでオエーとなるのです。作品に没頭できなくなってしまう。
別にこちらから積極的に作者の姿を探したわけでもないのに、ただイベントに一般参加しただけで作者の生々しいリアルな姿(醜さ)を見せられてしまい、脳内に刻まれてしまったのです。
(くだんの男性作者さんの容姿が劣ってると言いたいのではない。女にとって男は一部の例外を除いてだいたい醜いのです)
作り出した作者が醜くても作品に罪はないからこそ作品の世界に没頭したいのに、記憶の片隅にやきついた作者男の映像に邪魔されてしまう。これまで楽しんでいたものが楽しめなくなるという妨害行為をされてしまった。それが嫌で、そんな被害者を再発させないよう、男作者は予防してほしいのです。

 おまえは何をいっているのだ、というしかないめちゃくちゃなロジックで、あらゆる意味でツッコミどころ満載なので、批判的に分析しようと思えば簡単なのだが、ここではあえてそういう文脈では取り上げない。すでにたくさんの人がそうしているからである。

 そのかわり、ここで、ぼくはこの文章に対し、ある種の「共感」を込めて語ることにしたい。

 気でも狂ったか、といわれるかもしれない。このようなろくでもない自己中心的な妄論に共感するなど。

 しかし、この「増田」が考えていることが、じつはぼくには良く理解できるように思えるのである。それは、より本質的には「同人女」に限ったことでも、ルッキズムや男性嫌悪といった問題でもない、とぼくは感じる。

 それはむしろ、「人類のテーマ」とでもいうべき深く重い問題の一端なのであり、そして、また「創作とは何か? そして、だれかが創作した作品を受容するとはどういうことなのか?」といった問題ともつよく関係している。

 ぼくはそう思う。具体的にどういうことなのかは下記に記していこう。

【天才作家キングと『ミザリー』という名作】

 そのキャリア50年に及び、数々の傑作を物してモダン・ホラーの巨匠とも呼ばれている天才作家スティーヴン・キングの初期の代表作のひとつに、『ミザリー』という小説がある。

 おそらく、この文章を読まれている方の多くもタイトルくらいは聞いたことがあるのではないかと思う。

 その名も『ミザリー』というタイトルの作品を書いた作家ポール・シェルダンが、その『ミザリー』の熱狂的ファンである女性アニーに監禁され、拷問されながら『ミザリー』を書き直すことを求められるという筋書きだ。

 キングがこの小説を書いた頃にはまだ「ストーカー」という概念はなかったとらしいが、キングは天才的な直感でまさに「作家につきまとうストーカー」の本質を的確に描き出すことに成功している。

 作品を熱狂的に偏愛する「ファン(この言葉は、ファナティック=狂気から来ているという説がある)」にとって、作家はしばしばただの「ノイズ」と化す。

 なぜなら、作家の生み出す作品は必ずしも自分の思い通りにならないからである。何もかも自分の願望をそのままに描き出された作品を理想の名作とするなら、現実の作家が生み出す新作はかならずその理想からズレていく性質を持つ。

 どんなに優れて天才的な作家であっても、自分とは異なるべつの人間である以上、どこかに「自分にとって都合の良くない存在」としての一面をそなえているからだ。

 しかし、どのような作品もその「都合の良くない存在」としての作家がいなければそもそも生まれないわけであり、作家を否定することは作品を否定することでもある。

 あたりまえといえば、これ以上ないくらいあたりまえの話だろう。しかし、それこそ作中作としての『ミザリー』のような超絶的に優れた作品と出逢ったとき、ぼくたちは(とあえて書くが)、しばしばそのあまりにもあたりまえのことがわからなくなる。

 自分の好みの作品を描いてくれない作家を恨み、憎み、攻撃しさえするのである。そのとき、ぼくたちはシェルダンに作品改変を要求するアニーと化しているといっても良いだろう。

 とくに現在のインターネットでは、このような「アニー」の姿をたくさん見ることができる。

 キングはほんとうに慧眼だった。かれには作品を愛する一方で作家を憎む「ファン」の真実がわかっている。また、日本にもこういった「アニー」的な心理を傑出した表現力で描写した作品がある。たとえば、庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』である。

【インターネットの「アニー」たち】

 1997年に公開された『エヴァ』の劇場版には、ほんの一瞬、「庵野、殺す!」という言葉が映し出される場面がある。

 「アニメファン」というが人種がときにいかに傲慢で醜悪になりえるかが端的に表現されたセリフであり、また、「ヒトとヒトがどれほど理解しあえないか」を象徴する言葉でもあるのだろう、きわめて印象的な一場面だった。

 庵野監督はのちに、NHKの取材を受けて、この頃、インターネットで庵野秀明の殺し方を議論する掲示板のスレッドを見て、何もかもどうでも良くなり自殺を考えたという趣旨のことを語っている。

 インターネットに集まる「アニー」たちは、庵野というシェルダンをまさにあと一歩で殺害するところまで行っていたのである。

 庵野が天才的な映像作家であり、『エヴァ』が超絶的な傑作であったからこそ、たくさんの人が自他を分ける境界線(まさに『エヴァ』作中におけるA.T.フィールド)を認識できなくなり、人をひとり殺しかけたのだ。

 もしかしたら、そこに書き込んだ人たちはちょっとしたジョーク、あるいはストレスの発散のつもりだったかもしれないが、そういった悪意をぶつけられる側はたまったものではない。

 ぼくはひとりのファンとして、庵野監督が生きのびて新作を作ってくれたことを感謝するばかりだ。

 ただ、『ミザリー』や『エヴァ』の場合は極端な例ではあるが、古来、このようなことはくり返しくり返し起こってきたのだろう。ファンによる作家殺人事件。

 もちろん、その動機は「作品愛」である。作品をあまりにも深く愛しているがゆえに、作家の存在が邪魔になってしまったのだ。

 いや、待て。ほんとうにそうだろうか? このように身勝手に作家を攻撃するような人物、即ち「インターネットのアニーたち」が、ほんとうに作品を愛しているといって良いのか。

 それは、かれらの主観では愛であるかもしれないが、実際にはもっと自分勝手な心理なのではないだろうか。ぼくは思う。それはどこまでいっても作品を鏡像として自分自身を見つめているだけの自己愛(ナルシシズム)の域を出ないのではないかと。

【幻滅と失望と】

 そもそも先ほど述べたように、市場で流通しているすべての作品は、それがどんなに理想的なクオリティであろうと、あくまで他人がつくったものである以上、完璧に自分の理想をなぞっていることはありえない。

 たしかにまさに自分の頭のなかの理想そのものだと思わせる作品はありえるだろうし、そういった作品を生み出せる作家を天才と呼ぶわけだが、それはどこまでいっても錯覚であり、誤解である。

 そして、その種の「しあわせな勘違い」が破綻するとき、まさに「作者、殺す!」と叫ぶ「アニー」が発生するわけだ。

 そういった「アニー」たちは自分のつもりではとても良く作品を理解しているし、愛しているつもりでいるだろう。わたしこそこの作品のいちばんのファン、と思い込んでいることすらありえる。

 しかし、もしその連中が作品の「自分にとって都合が良くない一面」を許容できないのなら、それはしょせん作品に自分の欲望を投影しているに過ぎず、ほんとうの作品そのものを愛してなどいないということができる。

 ひっきょう、それは身勝手なナルシシズムであり、「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」と問うて、「あなたです」と答えてもらうもらうことに満足する狂気の妃の歪んだ感情以上のものではない。

 鏡が期待外れの答えを返したら、彼女、あるいはかれは激怒してそれを割ってしまおうとするわけだ。

 ぼくは最初に取り上げた「増田」も、そのような自己愛的な作品鑑賞を行っている人物なのだろうと考える。そしておそらくそのことをある程度のところまで明確に自覚している。そうとしか思えない。

【美しいものだけの世界はこんなにも醜い】

 「彼女」は(ほんとうに女性だとして)、的確にも書いている。

3次元のナマモノも同じ。あくまで現実から切り離された虚構の姿、推しの肉体から我々の網膜・脳内に投影された映写像を消費しているのであって、もしその推し対象が現実の女と付き合ってる(性交してる)なんて聞いたら、一気にそこら辺にいる男と同格になってしまって、神格化の対象でなくなり、妄想できなくなり、幻滅して怒りが出てくるのです。(その怒りは推し本人に向かうことよりも、推しと付き合ってる女に向くことのほうが多い…こちらはもっと前から尊く崇めてたのにぽっと出の女が外見の良さを使って推しを生々しい世界に引きずり降ろしてしまったという怒りもあるし、これまでファンの皆が共有していた推しを抜け駆けして独り占めしてズルいという怒りもあるので)
※結婚しました報告は別。それはもう推しが神格の世界から降りて還俗したという宣言なので、一気に興味がなくなって他人事になり、弟の結婚を祝う姉のような生暖かい目で見られる。

 ここで「美しいものだけで構成された美しい作品」とか、「神格の世界」と呼ばれているものは、「自分の頭のなかだけにある理想の世界」といい換えることができる。

 一見すると「彼女」はだれかがつくった作品を愛好しているように見えるかもしれないが、その実、じっさいには自分の心のなかをただうっとりと覗き込んでいるに過ぎないのである。

 自己愛の牢獄。

 ひとりぼっちの宇宙。

 もっとわかりやすい例を出すなら、『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」の世界そのものだといっても良い。

 だれも逆らうものがいない、完璧に満たされた独裁者の世界は、しかしかぎりなく孤独だ。

 それはたしかに一見すると「美しいもの」だけで構成されているように見えるだろうが、その「美しいもの」を生み出す心はどこまでも醜い、ともいえる。そう、あのドリアン・グレイの最期のように。

【レヴィナスの哲学】

 もちろん、多くの人が指摘しているように、現実には二次創作を手がける人すべてがこのような身勝手なナルシシズムを満足させようとして筆を執っているわけではないだろう。

 この人物の同人感、あるいはBL二次創作感が相当に古くさいものであることはすでに色々な人が指摘している。

 もっと作家への敬意とか、作品への愛情といったものを介在させた上で二次創作に手を出す人だって少なくないだろうと思われる。

 だから、これはBLがどうの、二次創作がこうのといった話ではなく、人が自分と決定的に異なる「他者」と出逢ったとき、どう振る舞うかという話なのだ。

 他者。

 それは西洋哲学でしばしば取り沙汰されるテーマである。主にこの言葉があつかわれるのは現象学という分野であり、ハイデガーとかフッサールとかレヴィナスといった哲学者が使用したことが知られている。

 そのなかでもぼくがつよく惹かれるのはエマニュスト・レヴィナスの考えかただ。だが、レヴィナスの哲学はその難解さで広く知られているし、そもそもぼくはとくべつ哲学にくわしいわけではないので、かれの「他者」概念を正確に理解できているとは思わない。

 だから、ここではごく素朴に「他者」とは、決して理解し切れない自分とは決定的に異なる存在のことである、と定義しておこう。

 どうしても理解できない「他者」は、それゆえにぼくたちにとってとても不快な存在である。否、「他者」が「他者」として認識されるのは、何らかの不快感を覚えたときであるといっても良いだろう。

 ぼくたちはこの世界に生まれてくるまえ、母胎のなかでは一切の不快な「他者」が存在しない「完璧な世界」にたゆたっている。

 しかし、そこから出生し、へその緒(アンビリカル・ケーブル)を断たれることによって「不都合な他者」で満たされたこの「狂った世界」ないし「壊れた世界」に出逢う。

 そのようにして、ひとりぼっちだった幼い独裁者は万能感を喪失し、少しずつ少しずつ「成熟」していくわけである。

 だが、それはつらいことだ。何もかも思い通りになる「完璧な世界」に比べ、「他者のいる世界」は不条理である。

 まったく理屈通りにならないことがいくらでも起こりえるし、自分にとって不快なもの、「醜い」ものがたくさんある。それはどんな意味でも不完全で、怖ろしい場所だ。だから、ぼくたち人間はときに「完璧な世界」に舞い戻り、そこに閉じこもろうとする。たとえば、想像力を使って。

【「他者」は必要なのか?】

 人間にとって、自分の外側に存在する現実世界がまったく思い通りにならない理不尽なことばかりの「狂った場所」であるのに対し、純粋な想像力によって生み出された内なる世界はそのようなことが何もない「正しい場所」でありえる。

 だから、あたかも胎内回帰願望そのままに自分がもともといたところへ戻ろうとするように、ぼくたちは想像のなかに「あるべき完璧な世界」を求める。

 何が正しく、完璧であるかは人によって違っていることだろうが、いずれにしろ、一部の優れたクリエイターは受け手が「これこそ、まさにその世界だ」と思い込んでしまうような作品世界を描き出す。

 しかし、それでもなお、それはどこまでも「他者」による作品である以上、どこかで理想とは「ズレて」いる。あるいは、多くの二次創作を行なおうとすることは、その落差を「補正」し、また「補完」しようとする行為であるといっても良いかもしれない。

 そういった二次創作は、それがボーイズ・ラブであろうがあるまいが、作者に積極的に物語の改変を求めることと比べれば、より穏当な行動であるといえるだろう。

 少なくとも、それは作家に対し攻撃的でもなければ暴力的でもないことがほとんどである。

 それどころか、二次創作の表現者のなかには作家を「神」として崇め、その作品を天上から降りそそぐ慈雨のように待ち望む人も少なくない。

 だが、そういった「信仰」は、やはり致命的な「失望」や「幻滅」とうらはらでもある。くりかえすが、どのような不世出の天才作家であれ、いつまでも受け手のかってな期待や幻想に応えつづけることなどできるはずもないのだ。

 まして、それが「男である時点で許せない」などと平然とほざく「自分という名の地獄」に棲むナルシシストであったなら。

 「あこがれとは理解から最も遠い感情である」という言葉があるが、人は、ある人物を崇拝すれば崇拝するほど、その欠点を許せなくなるものである。

 かってに幻想を抱いたのは自分のほうであるとわかっていても、だれかに幻滅したとき、その人に裏切られたという気持ちはつのる。そこで被害者意識を抱くことすらめずらしくない。

 上記記事の「増田」が書いていることは、その意味でそうおかしなことではないのである。決して社会的にまともな話ではないにせよ。

 これは同人界隈に特化した話のように見えるかもしれない。しかし、決してそうではない。社会がクリーンにととのえられればられるほど、「不快な他者」の存在は耐えがたくなる。

 その意味で、ぼくたちの「清潔過剰社会」は「他者」の容認を否定しがちな社会であるということができる。

 それが男であろうが女であろうが、「他者」は醜い。「他者」は気持ち悪い。「他者」はアンコントローラブルである。そうであるとすれば、ほんとうに「他者」など必要だろうか?

【この世界を拒むという選択】

 上記の「増田」のいうことは、随所で混乱してはいるが、基本的にはいたって論理的である。

 彼女はこういっているのだ。「わたしを不快にさせるすべての「他者」に呪いあれ。わたしはこの世界を拒絶する。わたしはわたしにとって快い存在だけを受け入れて、永遠にひとりで生きていく」と。

 彼女は彼女にとって「醜い」すべての存在を拒絶することだろう。それらはどうしようもなく不快だからである。

 上記の文章のなかではそれは男性に限定されるように書かれているが、じっさいには女性であっても彼女にとって不快な存在はすべて拒絶して顧みないはずだ。

 ほんとうは性別の問題などではないのである。女性を許容するようなことを書いているのは、同性がわりあいに「自分と同質の存在である」という幻想を許容するからに過ぎない。

 だが、それはあくまで幻想であるに過ぎないのであって、現実には同性であろうがなんであろうが、自分とは決定的に異質な「他者」であることは変わらない。

 もし、完璧な人生を送ろうとするのなら、一切の他者を拒んで「ひとりぼっちの世界」に閉じこもるほかない。たとえ、それが見方を変えればおそろしい独居房であるに過ぎないとしても。

 「どくさいスイッチ」を押すとはそういうことだ。

 『エヴァ』のラストシーンで、惣流・アスカ・ラングレーは呟く。「気持ち悪い」と。そう、「他者」は、「他者」がいる現実世界はどこまでも「気持ち悪い」し、都合が悪い。思い通りにならない。コントロールが効かない。

 ぼくは思う。そのような不快で理不尽で不条理で狂っていて壊れている世界を、「それでも、なお」選択するべき理由が何かあるだろうか? 「どくさいスイッチ」を押してしまえば良いではないか?

 そうすれば、この世から「気持ち悪い」ものはすべて消え去る。悪意に満ちた攻撃的な「他者」から逃れることができる。そのような「他者」と永遠に決別し、自分ひとりだけのユートピアを築くことができるのだ。

 そこにはあるいはプラトン的な意味で二者に分かれた「攻め」と「受け」はいたりするかもしれないが、その両者は互いに互いを愛し、「補完」しあっている。

 すべてのディスコミュニケーションが解決される運命の完璧な場所。生まれるまえにいた楽園。何もかもがしあわせな、優しい世界。醜いものも、気持ち悪いものも何もない。それなら、そこにひきこもり、閉じこもって何が悪い?

【それでも世界は愛するに値する】

 そう、悪くない。何も悪くはない。だが、それでも、ぼくはそのような「他者」がいない世界を選びはしないことだろう。

 BLを批判するのではない。二次創作を否定するのでもない。ぼくにとってのBLや、二次創作とはそのような行為ではないからである。

 ぼくにとって、そのような二次創作とは、絶対的に異なっていて理解ができない「他者」としての作家と、その作品への愛情と敬意からスタートするべきものである。

 愛情。

 そう、「愛」とはそもそも自分と他人を明確に分けへだてるところからしか生まれない感情である。自他境界のないところに愛情はない。

 それはたしかにA.T.(アブソリュート・テラー=絶対恐怖)の行為ではあるだろう。だが、その恐怖を乗り越えることによってしか、ぼくたちはだれかを愛することはできないのだ。

 自分の思い通りにならない「他者」。醜く、気持ち悪く、理解できず、理解されることすらない「他者」。だが、それはなんといとおしく思われることだろうか。

 結局のところ、自分にとって都合が良くない「からこそ」、ぼくたちにとって「他者」は愛するに値する。

 ぼくたちは他者が自分にとって美しいから、気持ち良いから愛するのではない。むしろ、ぼくたちは「他者」のどうしようもない都合の悪さに出逢ったときこそ、「やれやれ」などと呟きながらかもしれないが、その人を愛する端緒に立つのである。

 だから、ぼくはてのひらのなかの「どくさいスイッチ」を放り出し、きっと囁くことだろう。あきらめるもんか。そして、その人へ向かって歩き出すに違いない。ぜったいにあきらめないぞ。

 ぼくにとって、だれかが生み出した創作作品とは、そのような意味での「他者」と出逢い、愛しはじめることである。

 それは、たしかにぼくを気分よくもてなすための工夫がなされているかもしれないが、だからといってぼくひとりのために書かれたものではありえない。すべてがぼくの好みに沿ったものなどではさらさらあるはずがない。

 しかし「それでも」、否、「そうだからこそ」ぼくはその作品を愛することができる。

 これはただ創作やその受容だけの話ではない。そも人がだれかと出逢い、その人を愛するということは、そういうことでしかありえないはずだ。そうではないだろうか。

 自分にとってコントロール不可能「であるからこそ」、人はいとしい。作品は面白い。ぼくはそういうふうに考える。

【ヒューマニズムの拡大】

 少女漫画家の羅川真理茂に『ニューヨーク・ニューヨーク』という傑作がある。

 ゲイの警察官ケインとパートナーのメルの恋愛模様を描いた作品で、いってしまえばBLの亜種ではあるのだが、ただそれだけにはとどまらず、同性愛者の人生と価値観とがかなりのところまでリアルにえがきこまれている。

 そのなかで、ケインが父親と母親にカミングアウトする場面がある。自分のそれまでの人生に出逢ったことがない(と、少なくとも思っている)ゲイである息子を母は受け入れることができない。

 しかし、彼女はその息子と対立し、葛藤しながらも、しだいに考え方を変えていくのである。そして、彼女は心のなかでひとり呟く。

「拡がってゆく… 考え方が違う人達 求める価値も存在も違う人間 私の閉ざされた心がひろがってゆく 少女時代ジョージに会った時 考え方の違いに驚いたわ 仲の良かった友人達 変わり者のクラスメイトにも驚かされた 出逢った人達は皆 そのヒューマニズムを私に与えてくれる」

 そう――人が「他者」と出逢い、世界を拡げてゆくとは、こういうことなのではないだろうか。

 もし、彼女の息子が同性愛者ではなく、彼女が望んだとおりの人物だったとしたら、彼女はいっさい傷つくことはなかっただろう。そして、幸せなままでいられたことだろう。

 だが、彼女の世界はその分だけ狭くなったに違いない。ゲイやレズビアンに対する偏見はそのままだっただろうし、彼女がいうところの「ヒューマニズム」は未熟なままで終わったはずだ。

 たしかに、彼女は息子によって傷つけられ、苦しめられ、また息子を傷つけ、苦しめた。しかし、その傷と苦しみによってこそ、彼女は人間(ヒューマン)として「成熟」したのである。

 それはなんと素晴らしいことだろう。ぼくは思う。もし「他者」としての息子と出逢わなければ、出逢ったとしても拒んでしまえば、傷つくことはなかった。だが、そうやって心のなかの「どくさいスイッチ」を押して、狭隘な自己愛の世界に逼塞してしまうことは寂しいことではないだろうか。

 他者は醜いかもしれない。世界は気持ち悪いかもしれない。だが、それでも、否、そうだからこそ豊かでもある。

 すべての芸術作品は、いわば「世界のかけら」であり、「その広大で豊饒な現実世界へのとびら」でもある。とびらをまえにしてインナースペースに閉じこもることは自由だ。しかし、ぼくはあえてとびらを開き、不都合ではあるが限りなく豊饒な宇宙に飛び込んでいきたい。

 このような作品を読むと、そう思わずにはいられない。

【「お前は、それで幸せなのか?」】

 このような描写はもちろん他の作品にも見いだすことができる。むしろ、ぼくが感動するのはそのほとんどがこのような意味での人間愛と人間賛歌にふれたときである。

 たとえば、作家の栗本薫の代表作で、世界でいちばん長い小説であるとされる『グイン・サーガ』の第82巻では、主人公である豹頭の戦士グインが、まわりの人間の醜悪さと不快さに耐えられずかれらをその本性に見合う動物の姿に変えてしまった旧友のレムスに対し、切々とそれはまちがえていると語る場面がある。

 かれはいう。

「俺は――それでもなおそう思う。……俺はたとえどのようにおのれが苦しんだとしても……理解を得られなかったとしても、それが不当だと思ったとしても――ありは、それが不当だと知っていてさえ――やはり、俺は……愛は人間であってほしいと思う……人間なればこそ、おのれの意思によって苦しんだり……憎んだりもする――ゆきちがい、すれちがい――一方的に要求を叩きつけてもくる――だが、それだからこそ……」

 グインはこのあと、こう続ける。そう、たぶん、だがそれだからこそ、すべては正しいのだ、と。

 ぼくもそう思う。たしかに、自分の思い通りにならない「他者」とのすれ違いや行き違い、誤解と偏見を一方的にぶつけられ、傷つけられ、打ちのめされる体験は愉快とはいえない。

 しかし、それはそのような「他者」がそれでも自分を少しでも理解してくれるかもしれないという期待、あるいはそういった「他者」とも理解しあえるかもしれないという可能性、その喜びとうらはらなのである。

 グインはさらにいう。「苦しみがなくなることは間違っているのだ――生きているというのは、苦しみとそして喜びとがともに存在しているということで――片方だけを望むことはできない。苦しみだけをも求めるのは間違っているし、喜びだけの世界もまたありえない――そして、苦しみをしめだそうとしたとき、喜びもまた世界から失われ――そこに死がやってくるのだ」と。

 そして、レムスに向け訊ねる。

「お前は――」
 グインは、奇妙なあわれにかげった声で云った。
「お前は、これでいいのか? これが本当にお前の望んだものだったのか? お前はこれで本当に幸せなのか?」

 ぼくもまた、「増田」の人に尋ねてみたい。ほんとうに、それで良いの? 自分にとって「醜い」もの、都合が良くないものをすべて排除したひとりぼっちのパラダイスで、あなたはほんとうに幸せなの? だれひとり愛することができないその「コギト」の世界、唯我論の牢獄にほんとうに満足しているの? と。

【ぼくは選ぶ、世界を、人間を、現実を、他者を】

 もちろん、そう問えば、わたしはこれで満足なのだ、放っておいてほしい、そもそもわたしの世界をそのように決めつけることがあなたの偏見でしかない、そういうふうに答えが返ってくるかもしれない。

 それならそれでしかたない。この「増田」もまたぼくにとって動かしがたい「他者」のひとりである以上、むりやりに「世界へのとびらを開け」と命じることはできないのだから。

 しかし、ぼくは、ぼく自身はそのようなルートを選ばない。たとえ、どんなに傷つき、苦しむとしても――そうだ、ぼくもまたいままでの人生で、散々に傷つけられ、苦しめられ、ほんとうに殺してやりたいと思った人間もいるくらいなのだが、それでも、なお、ぼくは「他者」を、「現実」を、「世界」を選ぶ。

 何もかも自分の好みで理想通りの美青年、あるいは美少女。それは結局、ただの退屈な人形に過ぎないではないか。

 ぼくがオタクとして、オタク的な文化を好むのは、決してそれが自分にとって完璧に満足がゆくものだからではない。むしろ、その反対――しばしばまったく思い通りにならず、理想とは程遠く、しかし自分の想像をはるかに越えて来ることがあるからこそ、そういったものが好きなのだ。

 そう、ぼくは人間が好きだ。世界が好きだ。同時にこの上なく嫌いでもあるが、それでもやはり生きていることが好きだ。

 この世界の森羅万象すべてを愛しているとはいえないまでも、愛したいとは思っている。そのつもりである。

 それは、アドラー心理学でいう「共同体感覚」のようなものであるのかもしれない。また、『SWAN SONG』で主人公である尼子司がいう「人間は素晴らしい」という言葉の真の意味でもあるだろう。

嫌われる勇気

 「他者」との確執によって自殺にまで追い込まれた金子みすゞはそれでも血を吐くように詠った。「みんなちがって、みんないい。」。その言葉の絶句させられるような重さ。

 あるいは宮沢賢治はソウルメイトとしての妹を失い孤独と絶望に震えてなお、だれかのために「ほんとうのしあわせ」を求めつづけた。ぼくは、そのような例を知るたびに、自分もまた可能であるかぎりはそのように生きたいと思うのだ。

【いちりんの花を隠した星空】

 いうまでもなく、そういいながら、ぼく自身もまた欺瞞と虚飾にまみれた、いいかげんで嘘だらけの小さく醜い人間でしかない。

 だから、聖者のようにすべてを受け入れることはできないし、愛することもできない。「悟り」はどこまでも遠い。「共同体感覚」なんて、夢のまた夢だ。

 だが、それでもぼくはこの世界への「愛」を求めたい。愛されることではなく、愛することを願いたい。

 そのときこそ、初めて世界には「美」も、また「醜」もなくなり、「平等」という地平が開けてくるはずだ。たとえ、それが一瞬のことでしかないとしても、それでも。

 だからこそ、ぼくはきょうも本のページをひらく。そこに、いままで見たことがない「他者」の「顔」が覗けることを望んで。

 レヴィナスが語ったところによると、我々は人を殺すことができるが、その「顔」が見えたとき、殺害は不可能になるという。

 凡庸なぼくにはその深遠な意味は理解し切れない。しかし、その「顔」とは、まさに「他者性」そのもののことなのではないだろうか、とも思う。

 作家という名の「他者」たちはぼくたちにその「ヒューマニズム」を分けてくれる。美しいだけのものではない。楽しいだけのものでもない。しかし、それがあるからこそ、ぼくたちは「世界」に飛びだすことができる。

 そして、ほんとうの意味で美しいとは、醜悪をも、悲惨をも含んで美しいということなのではないだろうか。ぼくはそのようにも考えるのである。

 すべて創作作品とは、作家が自我という孤島から市場という大海へ放り投げた一本のメッセージボトルである。ぼくたち受け手はそのボトルをたまさかに受け取り、あるいは感動し、あるいは憤激する。

 だが、とにかくボトルが自分のところへ流れてきたことがひとつの奇跡だ。その奇跡をこそことほごう。たとえそこがどんなに理解しがたい「他者」の印が刻まれていても、ぼくは少しでも理解しようと試みるだろう。

 あきらめないぞ。

 ぜったいにあきらめるもんか。

 「他者」よ、訪れるがいい。「世界」よ、荒れ狂うがいい。ぼくはおまえたちを愛そうと試みるだろう。生きることの歓びと哀しみとをともに味わい尽くすために。

 世界は美しい。それは、そこに愛するものをひそめているからだ。ぼくは、いま、そう、心から信じるものである。

「星があんなに美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ」 

サン・テグジュペリ『星の王子さま』

【さいごに】

 最後まで読んでいただいてありがとうございます! この記事は「海燕(オタクライター)」が全文を執筆しました。

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 海燕は現在、マルハンさま運営のウェブメディア「ヲトナ基地」にて、サブカルチャー系の記事を連載しています。4月公開の記事は2024年5月13日現在、人気記事ランキング1位です。そちらもご一読いただければ幸いです。

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