【「真の弱者」の地位を狙って繰り広げられるバトルロイヤル。】
べつに目新しい発想でも何でもないが、ひとつ思うことがあるので書いておく。
いま、ネットで起こっていることは、つまりは「弱者」の立場の取り合いだなあという話である。
この場合の「弱者」とは、もちろん体力とか精神力が弱いということではなく、「立場の弱い人」ということだ。
今日、ネットで語られている政治的な論争は、そのほとんどが「だれが弱者であるか」、「だれが弱い立場にいるか」を巡って展開しているようにすら思える。
あたかも、ほとんどだれもが「自分と自分たちの属するグループこそが「弱者」だ」と「弱者の立場」を奪い合っているかのよう。
これではまるで、「弱者の立場」はドラゴンボールかワンピース(ひとつなぎの財宝)だ。
いったい、なぜこれほどまでに「自分たちは弱者だ」と主張しなければならないのだろうか。
それは、ひとつには弱者であることに利権が絡んでいるからである。
この社会は、かのロールズを初めとする社会哲学でいうところの「正義」をもとに権利が分配されている。
したがって「弱い立場の人間」が「平等な立場」を求めることは正義にかなうとみなされる。つまり、「弱者」であると認められたならいっそうの権利を求めることができるわけだ。
しかし、問題なのは「だれが弱者なのか」ということである。
アメリカの公民権運動などを持ち出すまでもなく、かつて、「だれが弱者なのか」はかなり明快であったように思う。
女性や外国人や性的マイノリティなどはかなり明確に「弱者」であったし、だからこそ権利を請求できたわけだ。それなのに、いまとなっては「だれが弱者であるか」はまったく自明ではない。
その昔、圧倒的に「強者」の地位にあった中高年男性はもはやかならずしも強い立場にいないということがあきらかとなり、ひたすらに男性を敵視して女性の地位向上を求めるタイプのフェミニズムを敵視する人たちも出て来ている。
「だれが弱者なのか」の定義を求める「自称弱者」たち同士による「真の弱者の立場」をめぐる弱者戦争というか、「弱者内戦」がいつのまにか勃発し、はてしなく続いていくようである。
まるで『バトル・ロワイアル』。聖杯戦争じゃあるまいし、そんなものを奪い合ってどうするんだという気もするが、現代においては「弱者の立場」は争って奪い合う価値があるものとみなされているのだ。
さて、ネットでよく使われるジャーゴンに「かわいそうランキング」というものがある。
簡単にいってしまうと、「かわいそう」とみなされて同情を買いやすい、つまり「かわいそうランキング」が高い人は得をするという考え方で、いままで「弱者」と見られてきた女性や障害者などは「かわいそうランキング上位」であるのに対し、特に才能や地位に恵まれていない中年男性などは「かわいそうランキング下位」に置かれているとされる。
したがって、「かわいそうランキング」において下位にある中年男性はさまざまな権利を得られず、「弱者」であるということになる。
いままでの「弱者/強者」の定義を一気に逆転させるラディカルな発想だ。
こういったアイディアから発展していったのがいわゆる「弱者男性論」であり、そこでは「「キモくてカネのないおっさん」こそがほんとうの弱者なのだ」ということが隠然と語られる。
それでは、この社会における「真の弱者」とはそのようなおっさんたちなのだろうか、それとも女性や障害者なのだろうか。ネットにおいて「真の弱者の座」をめぐる「弱者内戦」は終わる様子もなく続いている。
この悪夢のような戦いを終わらせるためにはどうすれば良いのだろうか。
【「真の弱者」は実在するのだろうか?】
ひとつ考えられるのは、そもそも「真の弱者」などという人はいない、と考えることである。それは幻想であって実在しないのだ。
そもそも、弱者といい、強者といっても、その時々で「強さ」、あるいは「弱さ」はどうとでも変化する。
部下に対しては圧倒的な「強者」として振る舞っていたブラック企業の社長が、世論やマスコミに責められて一転、「弱者」へと転落するなどということは良くあることだろう。
つまり、だれが「強者」でありだれが「弱者」であるかは状況と文脈によって決定されるのであって、どのような場合でも常に「弱者」であるような人、「強者」であるような人はそもそも存在しないと考えるべきなのではないだろうか。
もちろん、多くの場合に「強者」として振る舞えるような人はいて、そういう人は往々にして傲慢になったりもするということはいえる。
ただ、それと「常に」「固定的に」強者や弱者がいるということは微妙に、しかし決定的に違う。
「真の弱者」も「真の強者」も実在しない。つまりはネットにおける「弱者内戦」は汚染された聖杯を奪い合う欺瞞と幻想の聖杯戦争なのだ。いや、『Fate』をプレイしていない人にはわけがわからないことをいい出して申し訳ありませんが。
そういう意味では、じつは明確な形での「かわいそうランキング」というものも存在しないのではないかとぼくは思う。
ある人なり集団が「かわいそう」と見てもらえるかどうかは、常にかなりあいまいで、しかも揺らいでいる。
たとえば、北朝鮮による拉致事件の被害者たちはこの現代日本社会における最も「かわいそうランキング順位の高い」人たちだといえると思うが、そうであってさえ「立場をわきまえず」政権批判を行ったりすると、その瞬間に「かわいそうさ」は霧散し、さんざん罵倒されることになる。
「いっていることは納得いかないけれど、かわいそうだから手心を加えてやろう」などと判断されることはまったくないようだ。
むしろ、「せっかく同情してやったのに生意気だ!」という心理が働いていっそう攻撃されることになるようである。
「かわいそう」という感情の裏側には、一種の差別意識がある。自分が優位であると認識しているからこそ同情するのであって、その優位性を崩されるととたんに「かわいそう」という感情は怒りへと変化する。
ちなみに、ぼくは政権批判や政権擁護が正しいとか正しくないとかいうことはいっていない。それはまたべつの話である。念のため。
さて、このように考えていくと、固定された「弱者」もいなければ、常に「かわいそう」である人もいない、ということになる。すべてはその時々でゆらゆらと揺らいでいる。
したがって、「ほんとうにかわいそう」な「真の弱者」の地位を巡って争い合うことにはそもそも意味がない。
どういう人がどういう権利を認められるべきかはその時々でケースバイケースで判断するしかなく、固定的に決定することはできないわけである。
だが、それでもこの「聖杯戦争」はまだまだ続くことになるだろう。それほどに「いつも弱者でいられる」という蜜は甘い。
「かわいそうランキング」という言葉を使うなら、一般に人が最も「かわいそう」と思いやすいのは他ならない自分自身である。
自己憐憫という言葉があるように、人はときに「自分はなんてかわいそうなんだ!」と思い込む。
簡単な話で、「自分の痛み」はダイレクトに感じ取れるのに対し、「他人の痛み」を実感するためには想像力というワンクッションをはさむ必要があるから、「自分こそがこの世界でいちばんかわいそうだ」と思いやすいのである。
だが、そのような自己憐憫の感情は本来、正義論や県理論とは分けて考える必要があるはずである。そうでなければ、より弱い立場にいる他者の状況に想像を巡らせることは不可能になるだろう。
ぼくはそう認識するものだが、さて、この欺瞞の内戦を、戦争を終わらせるヒーローはあらわれるのだろうか。
まあ、『Fate』と違っていつまでも果てしなく「自分たちこそが真の弱者だ」とか「ほんとうにかわいそうなのは自分たちだ」といい争う結末が見えているような気もしますね……。
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