深い眠りに落ちる
少し前の手前の
まどろみの中に似た
密やかな夜に
探し続けてるのは
あのメタフィジカ
祈るように紡ぎだす
ひとつの歌
「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」。
20世紀最大の哲学者のひとりである(らしい)ヴィトゲンシュタインのこの言葉はあまりにも有名でしょう。
ヴィトゲンシュタインその人の真意がどうであったかはともかく、人間には「語りえぬこと」があるというそのことを思うとき、ぼくなどは何か神秘的なものを感じ取ってしまいます。
また、山田正紀のSF小説『神狩り』の冒頭には、次のようなヴィトゲンシュタインの箴言が意味ありげに掲載されています。
かつて、神は万物を想像することができるが論理的法則に背くものだけは創造できない、と語られていたことがある。すなわち非論理的なる世界については、それがどのようなものであるか語ることさえできないのだから。
さて、本題に入りましょう。
この書き出しですでに引いている人も多かろうかと思いますが、気にせず始めることにします。
これはテレビアニメ『AIR』と『CLANNAD』、特にそのアフターストーリーのいち解釈を示そうとする記事です。
べつだん、これが「正解」だというつもりはありませんが、ちょっと面白い内容なのではないかとは思います。良ければお読みください。
さて、どこから語り始めたものか。まず、『CLANNAD』の話から始めましょう。
いうまでもなく『CLANNAD』はKeyのパソコンゲームを原作として京都アニメーションが制作したアニメですが、これが非常に難解な仕上がりで、ちょっと解釈に困る作品といえます。
少なくともぼくはいままで何が何やらさっぱりわからなかった。
その唐突ともいえる結末は、ともすると単なるご都合主義とも受け取られかねないものであるわけですが、よくよく考えてみると、ある程度は合理的な解釈を行うことが可能です。
じっさい、Googleを検索するといくつかその手の文章が見つかる。
ぼくは一応、原作ゲームもプレイしていますが、すでにだいぶ記憶が摩耗していてあいまいなので、ここではアニメ版に絞ってその解釈を追ってみましょう。
この文章(↓)あたりがよくまとまっていてわかりやすいと思います。
この解釈がどこまで「正しい」かはわかりませんが、とりあえず納得がいく解釈だとはいえるでしょう。
しかし、そもそも『CLANNAD』のシナリオライターである麻枝准さんはなぜ、これほど難解なストーリーを組まなければならなかったのでしょうか。
そして、なぜかれは『ONE』、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』、『Angel Beats!』と自身がシナリオを務める作品において、「えいえん」、「奇跡」、「惑星の記憶」、「翼人」、「呪い」、「幻想世界」といった解釈のむずかしいスーパーナチュラルな現象を出現させているのでしょう。
答えは謎ですが、ぼくなりの結論をひとことでいってしまいましょう。
それは「想像できないものを想像しようとする」努力の痕跡であると思うのです。
「想像できないものを想像する」――ご存知の方も多いでしょう。いまから50年近く前の1970年代、23歳の青年SF作家・山田正紀がデビュー作『神狩り』が掲載されたSFマガジンに記し、その後、各所で幾度となく引用されることになる言葉です。
ネットで拾ってきたところによると、正確には以下のような文章だったようです。
なぜ書くのか、などと考えてみたこともないし、考えるべきだとも思わない。
(中略)
では、なぜSFなのか、と訊かれたらどうなのか? それも応えない、としたら、やはり、怠慢のそしりはまぬがれないだろう。
「想像できないことを想像する」
という言葉をぼくは思い浮かべる。一時期、この言葉につかれたようになり、その実現に夢中になっていたことがある――。
SFだったら、それが可能なのではないか?
だめだろうか?
だめに決まっているじゃん、と思ってしまうわけですが、山田正紀はあきらめませんでした。
かれはその作家人生を費やし、幾度となく「想像できないもの」そのものである「神」と格闘しつづけることになります。
そして何より日本SF史上伝説の一冊といわれるこの『神狩り』はまさに「想像できないことを想像する」努力に貫かれた一冊です。
前述した哲学者ヴィトゲンシュタインが作中人物のひとりとして登場することでも知られています。
そこで焦点があたるのが「神の言語」というアイディア。この物語の骨子となる発想です。
『神狩り』は、古代文字――論理記号がふたつしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ「神」の言語を中心として展開していくのです。
「人間は関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない」という前提を乗り越える超越存在、「神」。
その絶大なる力を前にして、人間はただ翻弄されるだけの存在でしかありえません。
山田正紀は斬新にも、ここで「論理認識のレベルが異なる存在」として「神」を定義したわけです。
そもそも「神」とは、人の想像の外にある存在です。人間程度が想像できるようなら、ほんとうの意味で「神」であるとはいえないということもできるでしょう。
どんな天才であっても想像できないほど神々しい、眩いばかりの超越的存在、それが「神」であるはず。
ユダヤ教、キリスト教、イスラムといういわゆる「アブラハムの宗教」において、偶像崇拝が禁止されたのはこのためでしょう。
つまり、神は想像できないばかりか、描くこともできない存在であるのです。
それを仮初めにでも描いてしまったら、「神」そのものではなく、その偶像を崇拝することになる。
それで、あなたがたは神をいったい誰とくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工職人が鋳て造り、鍛冶が金でそれを覆ったり、それのために銀の鎖を造ったりする。貧しい者は供物として腐りにくい木を選んで、細工職人を探し、動かない像を立たせる。あなたがたは知らなかったのか? あなたがたは聞かなかったのか? はじめから、あなたがたに伝えられなかったのか? 地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったのか?
『イザヤ書』
しかし、ひとはなかなかそのような抽象的存在を崇めつづけることはできません。
「決して想像できないもの」を信じよ、といわれてもむずかしいでしょう。
そこで、「神」の存在をなんとかして形にしようとする美術が生まれていったのだと思います。
おそらく宗教美術の歴史では、本質的に「描けないもの」である「神」とその世界をどうにか描くための努力がさまざまに行われたことでしょう。
あいまいな書き方をするのはぼくが美術史にまったくくわしくないからですが、たとえばイコンなどは「神」を描こうとする努力、つまり「想像できないものを想像しようとし、描写できないものを描写しようとする」行為の作例なのではないでしょうか。
そのほか、重要な作品としては、たとえばベルニーニの「聖テレジアの法悦」などがすぐに浮かびます。
いままさに天使が持つ矢に貫かれようとしている聖女テレジアの法悦を描いた官能的な彫刻ですが、注目するべきは彫刻の背後に描かれた光です。
この光はあきらかに「より上位の世界」、つまり「神の世界」から降りそそいでおり、聖テレジアはその耐えがたいエクスタシーに陶然としているように見えます。
彼女はある意味で「神の指先にふれた」のです。
「神の指先にふれる」――それはひとが感じえる最も崇高な「法悦」なのかもしれません。
さて、より近代的なエンターテインメント作品においても「想像できないものを想像し」、「描写できないものを描写する」その苦闘は続いています。
20世紀、多くの作家のなかで宗教心は褪せたかもしれませんが、ひとに想像力がある限り、「想像できないもの」への興味と憧憬が失われることはありません。
そして作家であるからには、「描写できないもの」をなんとか描写したいという野心を抱くものでもあるのでしょう。
その壮大な野心は結果として多くの名作を生み出しました。
たとえば、ときに「神学ミステリ」と呼ばれることもあるエラリイ・クイーンの傑作『九尾の猫』においては、最後の最後で推理に失敗し絶望する名探偵エラリイに向かって、傍らの人物が「神はひとりであって、そのほかに神はない」と語ります。
この台詞をどう解釈するべきかはむずかしいものがあります。
神のように推理しようとするエラリイの傲慢をいさめているようにも思えるし、その反対に神であろうとして失敗したかれをなぐさめているようにも感じられる。
いずれにしろ、この瞬間、読者はすべての運命の糸を操る存在であり、エラリイがどんなに必死に推理を展開してもなお届かない超越者である「神」の存在をありありと感じることでしょう。
ここでも、「想像できないもの」である「神」を「描かないことによって描く」という手法が採用されているわけです。
あるいは手塚治虫の『ブラック・ジャック』などにしても、ブラック・ジャックが巨大な運命の前に敗北し、「神」に向かって叫ぶという場面が存在します。
これも同じような意図のシーンだといっていいのではないでしょうか。
しかし、これらの作品はべつだん、「神なるもの」を描こうとするところに狙いがあったわけではないでしょう。
一方、『神狩り』のように、あきらかに「神なるもの」を描くために物語を積み重ねたと思しい作品も存在します。
とりあえず、ここではひとが認識することはできず、まして描き出すことは到底不可能な神の次元、光の世界――それを仮に「超越世界」と呼ぶことにしましょう。
その「超越世界」をどうにか描き出そうとした名作といえば、古いSFファンにとっては小松左京の『果しなき流れの果に』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』といった作品が思い浮かぶところでしょう。
いずれも非常に古い作品ですが、そのイマジネーションの壮麗さはいまなお読者を圧倒します。
さて、これらの作品はぎりぎりのところまで「想像できないもの」を想像しようとし、また描こうとしますが、それでもやはりそれを描くことはできません。
『果しなき流れの果に』は、長い長い物語の果てにある存在が限りない高次元へと登りつめようとし、そして失敗してあたかも太陽の陽に灼かれたイカロスのごとく「下界」、20世紀の地球という現実的な世界に堕ちていくところで閉じられています。
とまれ
階梯概念が指示した――だが、彼は、それにさからって、上昇をつづけた。秩序をやぶってまで、それにさからうエネルギーは、ひたすら共振にあった――上るにつれ、多元時空間をのせたまま流れて行く、超時空間は、はげしい、湾曲した激流となって遠ざかった――混沌とした晦冥の渦まく中に、朦朧とした概念があった。彼は、はげしく問いを投げた。
超意識の意味は?
低次の意識発生過程とのアナロガスな理解……
晦冥が晴れて、ふっと概念が姿をあらわす。
一方、『百億の昼と千億の夜』も、放浪の末に世界の終焉にまでたどり着いた主人公・あしゅらおうが、「この世界の外」に存在すると思われる何者かの言葉を仄聞するところで終わっています。
いずれも、直接に描き出すことができない「神なるもの」と「超越世界」を間接に描き出そとうした作品であると思います。
『果しなき流れの果に』のアイにしても、『百億の昼と千億の夜』のあしゅらおうにしても、結局は「超越世界」に到達することはできないのですが、まさにその苦い敗北の味が読者に強い印象を与えます。
それは、先ほど取り上げたエラリイ・クイーンやブラック・ジャックの敗北と同系統のものであるといえるかもしれません。
もっと具体的にその次元に到達したものを描いているように見える作品としては、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』が存在します。
天才スタンリー・キューブリックの手によって映画化され、いまなお伝説的評価を受けているこの作品は、超越存在であるスター・チャイルドの出現を示唆して終わっています。
ここでは、超越存在の実在は明確に描写されているのですが、その具体的な行動は描かれていません。
スター・チャイルドがこの先、いったい何を行うのか、それはどこまでも謎なのです。
目のまえには、スター・チャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。
手遅れになる前にもどったのだ。下の込みあった世界では、いまごろ警告灯がどのレーター・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空をさがしていることだろう。――そして人間たちが考えるような歴史は終わりを告げるのだ。
同じクラークの『幼年期の終り』に出て来る超越存在であるオーバーマインドにしても、やはりその存在は描かれてはいても、具体的にかれらが宇宙をどうするつもりなのかはわからないままです。
これも結局は「描かないことによって描く」手法のバリエーションであると思われます。
一方、本格ミステリでありながら「神のトリック」を描くことによって、この世界への神の影響を描き出そうとした超異色作も存在します。
麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』。
この小説では、夏に雪が降るという超常現象(とも解釈できる現象)の上で、あたかも高次元の存在が起こしたかのような「神のトリック」が炸裂します。
はたしてそれがほんとうに「神のトリック」だったのか、それともありふれた俗界のトリックに過ぎなかったのか、ほんとうのところはわかりません。
しかし、多くの読者はその神秘的展開に「神」の存在を思うことでしょう。
少し毛色が違うところでは、乙一の『くつしたをかくせ!』という作品をご存知でしょうか。
この絵本では、世界中の子供たちがサンタクロースがプレゼントを入れられないようさまざまな場所に靴下を隠すという逆説的な物語が展開するのですが、最後の最後、子供たちの必死の努力にもかかわらず、すべての靴下にはプレゼントが入っています。
なぜ? それはわかりません。
ただ、サンタクロースは子供たちがどんなに巧妙に逃れようとしてもその裏をかくことができるのだ、と考えるしかないでしょう。
ここでのサンタクロースがあらゆる物理法則を乗り越えた「超越世界」の超常存在――「神」を意味していることはあきらかです。
つまりは、これもまた「神のトリック」であるということができるでしょう。
『くつしたをかくせ!』の本編にはサンタクロースは登場しません。
やはり、これもまた「想像できないもの」を「描かないことによって描く」作品のひとつなのです。
さて、いままでSFやミステリの作例を見て来たわけですが、より宗教に近いジャンルであるファンタジーはどのように描いてきたのでしょうか。
たとえば、C・S・ルイス『ナルニア国物語』、J・R・R・トールキン『指輪物語』などは、「超越世界」をどう描写しているのか。
トールキンはともかく、ルイスはあきらかにキリスト教の信仰をもとにして『ナルニア』を書いたといわれています。
それでは、ルイスは「ナルニア」こそがまさに「超越世界」そのものである、と考えていたのでしょうか。
そうではありません。ここでも「ナルニア」はあくまで「真の楽園」へ至るひとつのステップであるに過ぎないのです。
「真の楽園」は「超越世界」であるが故に描くことができない。そのためにその世界の「影」としてのナルニアを描く。そういう方法論だといってもいいでしょう。
あるいは、これは孫引きになりますが、より世俗的とも受け取られるJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズにしても、このようないち場面があるそうです。
「僕は、帰らなければならないのですね?」
「きみ次第じゃ」
「選べるのですか?」
「おお、そうじゃとも」
ダンブルドアがハリーに微笑みかけた。
「ここはキングズ・クロスだと言うのじゃろう? もしきみが帰らぬと決めた場合は、たぶん……そうじゃな……乗車できるじゃろう」
「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」
「先へ」
ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。
「先」。
それは決して描けない「超越世界」を意味しているものと思われます。
つまり、SFにしろミステリにしろファンタジーにしろ、直接描くのではなく示唆することによってしか、「超越世界」の神秘を描くことはできないのです。
さて、ここでようやく麻枝准の作品の話に戻ります。
『ONE』から『Angel Beats!』に至る麻枝作品は、実は常に「超越世界」と「現実世界」の関係を描いてきたというのがぼくの解釈です。
くり返し述べているように、「超越世界」とはいわば「神さまの世界」であって、人間は描写することができません。
プラトンの言葉でいうならイデア。仏教の言葉でいうならニルヴァーナ? 天国と呼んでもいいし、形而上的(メタフィジカル)な世界と呼んでもいいと思います。
いずれにしろ、ヴィトゲンシュタインが「語りえぬもの」と呼んだ、その世界であることでしょう。
この「超越世界」の存在が麻枝作品では常に「示唆」されています。
それが「えいえん」であり、「惑星の記憶」であり、「幻想世界」であるということになります。
名前はなんと呼ばれてもいいのだと思います。なぜなら、それを正確に名づけることは人間にはできないのだから。
神がいくつもの名前で呼ばれても神であることと同じ、といってもいいでしょうか。
さて、それでは麻枝准はどのようにして決して描けない「超越世界」を描こうとしたのでしょうか。
それは「超越世界」が現実世界に与える影響を描くことによってでした。
より上位の次元である「超越世界」の影響は、現実世界ではたとえばありえない「奇跡」として認識されることになります。
『Kanon』がおそらくこの例にあたるといっていいでしょう。
あるいは『ONE』では、「突然、人間がいなくなってしまい、現実世界のすべての人々に忘れ去られてしまう」という現象が描かれています。
それは「超越世界へと存在がシフトし、現実世界においては消滅したがゆえに忘れ去られた」と解釈することができるでしょう。
また、『AIR』では主人公・国崎往人の法術や、「翼人」たちの存在としてその影響がかいま見えます。
超越存在でありながら現実世界に存在し、天使(メッセンジャー)を想起させる外見をもつ翼人たちは、「超越世界」である「惑星の記憶」の「端末」であると考えることもできるかもしれません。
そしてまた、『CLANNAD』では岡崎汐の存在があります。
それらはすべて、真世界である超越世界が「影の世界」ともいうべき現実世界に与えた影響の描写です。
そして『AIR』の観鈴や、『CLANNAD』の汐の存在を見ていると、ひとは「超越世界」へとたどり着くことができるのだということがわかります。
あるいは、麻枝作品では「超越世界」とはひとの願いによって形作られた世界であると定義されているのかもしれません。
これがきわめて直接的に描かれたのが『AIR』で、観鈴の肉体は死亡したものの、魂は「惑星の記憶」に到達しています。
そういう意味で『AIR』はハッピーエンドの物語です。観鈴は肉体の死を超えて、すべての生が肯定される「超越世界」にたどり着いたのですから。
そしてなぜ観鈴が「惑星の記憶」に到達できたのかといえば、何回(何十回? 何百回?)ものループによって「魂の力」が蓄積されたからです。
ぼくはこれを輪廻転生のなかで功徳が積まれたということに喩えたいと思います。
いわばループとは「自分自身への転生」なのです。
観鈴は何度となく自分自身へ転生して「魂の力」を溜め、そしてついに「超越世界」にまで飛翔した。『AIR』のストーリーはそのようにまとめることができるでしょう。
そして、『CLANNAD』の汐もそういう「超越世界」に到達したひとりです。
その超越世界の光景が『CLANNAD』では(意味不明とも思える)「幻想世界」として描かれているわけです。
その幻想世界の光景が、ある意味では『CLANNAD』の本編だといってもいいでしょう。
しかし、いままでくり返し述べたように「超越世界」は直接描くことができないので、幻想世界はあくまでも抽象的なイメージに留まっています。
つまり幻想世界は「超越世界」をダイレクトに描いたものではなく、それをひとの脳が理解できるように「解釈」したものだと理解するべきだと思います。
これは『ファイブスター物語』で描かれた天上世界と同じことでしょう。
天照大神が存在する天上世界はいかにも古典的な「神の世界」らしく描かれていますが、じっさいに天照の世界がああいうふうだというわけではないはず。
あれは読者が理解できる程度に解釈された「超越世界」の描写なのです。
さて、超越世界に達した汐は、仏教でいうなら「菩薩」になったとでも喩えられるでしょうか?
本来、「苦界」である現実世界における人類の苦悩と葛藤の末に生まれた究極の希望です。
なぜ、汐が「菩薩」になれたのかは、そこの描写がことごとくカットされているのでよくわかりません。
上のほうに書いた解釈を信じるかどうか、というところです。
おそらく、汐が「超越世界」にまで駆け上がる瞬間は現実世界の歴史の一点に生まれた「特異点」だったのかもしれません。
しかし、とにかくいったん「超越世界」にたどり着いてしまえば、超越存在である「汐」はもはや時間にも空間にも縛られません。
だから、「汐」は時間を過去にさかのぼり、「光の玉」に象徴されるあの町のエネルギーを使って「因果のほつれ」を縫い直すことにした。これが『CLANNAD』のメインストーリーだと考えます。
『ファイブスター物語』において、遥かな時間の彼方、7777年に生まれるカレンが時々、時間をさかのぼって人間世界に干渉していることと同じだといっていいでしょう。
つまり、「汐」は神智学でいうマイトレーヤ(弥勒菩薩)に相当する存在だということになるでしょうか?
このように、麻枝作品はいつも決して描けない「超越世界」のことを描こうとしているために難解なしろものとなっていると考えられるわけです。
ただ、ぼくは未プレイですが、麻枝さんには一切「超越世界」的なものが登場しない『智代アフター』という作品もあるようです。
あれは何なのか。未プレイなのでなんともいえないのですが、おそらく「超越世界」を切り離し、現実世界の苦しみをひたすらに描いた作品といえるのではないでしょうか。
「苦界」である現実世界はこんなにも苦しみに満ちているということを描こうとしているのかな、と。
いずれにしろ、麻枝作品はこのように「超越世界」を描きながら、「人間の希望」を歌い上げています。
どういうことか。
つまり、人間には汐のような「超越世界」のコントローラー(神? 天使?)に駆け上がる道もあれば、そのような超越存在の介入を許すことなく、一身で希望を探ることもできるからです。
『ファイブスター物語』ふうにいうなら、それは「高貴なる抵抗(マジェスティック・スタンド)」といえるでしょう。
典型的なのが『CLANNAD』のことみの物語です。
これは麻枝さんの手になるシナリオではないようですが、ともかくことみは「超越世界」の介入を許さず、人間の力だけでこの世に奇跡を起こしてみせました。
これが人間の可能性の一端。もう一端が「汐」ということになります。
また、『AIR』のクライマックスに出て来るループ(輪廻)から解放された少年少女も、人間の可能性を象徴しているように思われます。
かれらは「過酷な日々」を抜け出てふたたび「功徳」を積みはじめた新しい存在です。
『ファイブスター物語』でいうなら超人類。あるいは第二世代ファティマ。
かれらそのものは現実世界の存在でしょうが、人間の悪意(高野山の呪い)から解き放たれて、新しい道を歩んでいくことが示唆されています。
一方、往人の転生であるカラスの「そら」はラスト、観鈴を目ざして「超越世界」である「惑星の記憶」へと駆け上がっていくように見えます。
これが『AIR』のラストシーン。
「彼らには(自分自身への輪廻転生という)過酷な日々を、そして僕らには(新たな「神へと至る進化の道」の)始まりを。」というわけです。
どうでしょう。ここまで見て行くと麻枝作品が「想像できないものを想像する」作品の系譜にあるものであるとする解釈が、ある程度は納得いくのではないでしょうか。
いままでの「神を描こうとする物語」は、『神狩り』のように「神の言語」といった奇抜なアイディアを用いたり、あるいは『果しなき流れの果に』のようにミクロから世界的なマクロへ、そこから宇宙的なマクロへ、さらには超時空的なマクロへ、と階段を登るようにスケールアップしていって、その先に「超越世界(ウルトラマクロ)」へたどり着こうとしていました。
これらはある意味でわかりやすいでしょう。また、荒唐無稽とのそしりを受けることはあるにせよ、そのスケールアップの飛躍は圧巻でもあったわけです。
しかし、それに対して麻枝作品では常にミクロのとなりにあたりまえのように超越世界が存在するという構造になっています。
つまり、日常のなかに神が存在するということ。これは、わかりづらい。
『夏と冬の奏鳴曲』における「パピエ・コレ」が最も近い描写でしょうか。
低次元の世界である現実に、高次元の存在である「神」が介入した結果による、人間の理解を絶した現象――。
ここでぼくは瀬戸口廉也シナリオの名作『SWAN SONG』を思い出します。
『SWAN SONG』では、一貫して文明崩壊した世界における「神なるもの」への抵抗が綴られています。
本編中には一切超自然的なものは出て来ないにもかかわらず、読者は「神なるもの」の存在を感じ取れます。
そしてまた、あるいは「世界の崩壊」そのものが「神」の介入であったのかもしれません。
「神」はひとの理解を絶した存在として天上に君臨する。その「神」への高貴なる抵抗を『SWAN SONG』は描いているのです。
あるいは、『魔法少女まどか☆マギカ』。あれも、「超越世界」へ飛翔する少女を描いた物語でした。
しかし、ぼくが『AIR』のラストシーンから連想するのは、宮沢賢治の童話「よだかの星」のクライマックス、すべての星々に拒絶されたよだかがそれでも天上の世界を目ざす場面です。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
『AIR』にしろ、『CLANNAD』にしろ、遥かな超越世界へたどり着くまでの物語です。
それは、特定の教義に則っているということではなく、より正しい意味で宗教的な物語ということができるでしょう。
この世の彼岸により気高いものを思う「プラトンの理想」を胸に抱くすべての人々に、その物語は訴えかけるのです。遠く、もっと遠く、高く、もっと高く、と。
それは遥かなメタフィジカへ至る旅。永遠の彼方への飛翔。ぼくはそこにひとの「生」の最も美しい結晶を認めます。
星の海に抱かれて
彷徨い落ちたその先に
探し求めた答えが
見つからなくても
月の灯に導かれて
漂い着いたその果てに
思い焦がれた景色が
待っていなくても
それでも僕は行く
【お願い】
この記事をお読みいただきありがとうございます。
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