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【作家と作品を分けて考えることはできるのか?】
ジャーナリストの佐々木俊尚さんが「コロナ禍を機に、長年ファンだったあるアーティストの実像に失望してしまった。どうすれば良いのか」という内容の質問に対し以下の場所で答えていた。
実に難しい問題ですね。おっしゃっている喪失感は、わたしも良くわかります。近年のさまざまな世界的ニュースにからんで「え……この人がそんな発言してるの……」とガッカリしてしまうことがとても増えてしまいました。
(中略)
とはいえ、若い世代の芸能人は決してそうではありません。わたしはアベマプライムというネットの番組でお笑いコンビのEXITとときどき一緒になるのですが、りんたろー。さんも兼近さんも古い価値観に流されることなく、自分の思考できっちり考えて時代にキャッチアップしていこうとする姿勢をいつもお持ちになっていて、感心することが多いです。これはアベプラに出ている他の若い芸能人も同じです。彼ら彼女らやEXITのような新世代の芸能人やミュージシャンが増えてくれば、このおかしな構図もいずれは一掃されるのではないでしょうか。
だからなるべく新しい音楽を聴き、新しい俳優やタレントを応援していきましょう。
つまり、そのアーティストに対する失望は失望として、より新しく的確な考え方をする若い世代のアーティストに触れ、応援していくのが良いのではないか、ということだと思う。
たしかに、いくら半生をかけて聴いてきた音楽とはいえ、いったんその「正体」があきらかになってしまったものを聴きつづけることはいかにも苦しい。
そのじっさいの姿に失望させられてしまったアーティストに対する期待は捨て去り、きっぱりファンをやめて新しい音楽を聴くのが良いのかもしれない。
ひとつの納得のいく見解である。
しかし、一方で、それは本質的な解決になっていないのではないか、という気もする。
いくら新しい世代のアーティストやクリエイターとはいえ、完璧な人格のもち主であるはずもない。
つまり、ある優れた人物、それがアーティストであれアスリートであれ、あるいは何らかのクリエイターであれ、その人のファンになることは、どうしてもそういう「失望」や「幻滅」とうらはらのことなのではないかとも思うのである。
もちろん、一生涯にわたって充分なリスペクトを込めてその人とつきあえるという幸福な例もないわけではないだろう。だが、そういうことは可能性としてはそれほど多くはない、とぼくは考える。
いってしまえば、どんなに優れたアーティストなりクリエイターであるとしても、あくまでたまたまその一芸に優れていたに過ぎないふつうの人なのである。
歌は上手いかもしれないし絵を描くことにかけては天才だったりするかもしれないが、だからといってとくべつ優れた人間というわけではないことがむしろ当然だ。
ある人のファンになるにしても、あまり人格や識見を期待しないほうが良いだろう。
【Fanaticな思い入れが人をファンにする】
とはいえ、そのように簡単に切り分けられるのなら悩まないこともほんとうではある。その世にもうつくしい歌声に耳を澄ませるとき、あるいは稀代の波乱万丈な物語に想いを馳せるとき、それらを生み出した才能はどれほどの人物なのであろうかと想像してしまうことはむしろ当然だろう。
そもそも、ファン(Fan)という言葉は「Fanatic(狂気)」から来ているともいう。純粋な理性ではある特殊な才能のもち主が全人格的に優れているとはかぎらないとわかってはいても、感情が納得しないということは十分にありえる。
ジョン・レノンが息子に暴力をふるっていたことがあきらかになっても、かれのことを清廉な平和主義者だと信じる人はいなくならないわけなのだから。
ぼく自身はいったん好きになったクリエイターに失望してファンをやめた経験は一度もない。それ以前に、だれかの熱烈な「ファン」になったことがないかもしれない。
好きな作家や尊敬する歌手などはいるが、その人の全人格を肯定できるという意味でファンになったことはない。そういう意味ではぼくにはまったく「推し」はいないのである。
いままでの人生でひとりもいない、といって良い。日々、推し活を楽しんでおられる方などから見れば寂しい人生と感じられるかもしれないが、それはそれで気楽だ。
全面的な賛美の対象としての「推し」こそいないものの、より限定的な意味で好きな人やものはたくさんあるからである。いい換えるなら、失望してもそれほどダメージがないレベルで好きな人はたくさんいるということでもある。
このインターネット時代、ぼくもたくさんの人のSNSを見て「なんだ、こんな人だったのか……」とがっかりしたことはある。いま、noteで現在進行形で作家の山本弘さんの追悼記事を書いているが、山本さんもそのひとりといって良いかもしれない。
そうでなくても、だれかを好きになって追いかけていると、なまじ好きからこそ「欠点」や「短所」や「限界」が見えてくることがある。熱心に追いかければ追いかけるほど、その人もまた完璧ではないことがわかってきて失望するわけだ。
しかし、それこそ山本さんの作品などもそうなのだが、失望したからといって即座に幻滅し、読むことをやめてしまうかというと、ぼくの場合はそうでもない。
そもそも、ぼくがかってに好きになっただけであって、その人にはぼくの理想通りに生きなければならない理由など何もないはずなのだ。一方的に理想を押しつけて、「その通りに過ごさなければがっかりだ」と強制するのはあまりにも身勝手な話である。
良く、Amazonの小説や漫画のレビューなどで「失望しました。読むのをやめます」と書いている人を見かけることがある。
そのシリーズを追いかけるのをやめたければ黙ってやめれば良いわけで、わざわざ宣言してやめることは「ファンをやめるぞ。やめられたら困るだろう」という一種の意思表示と見ることができる。
しかし、その人ひとりがファンをやめ、継続して読むことをやめたとしても、作家のほうは何も困りはしないのだ。こういう意思表示は作品の創り手と受け手の関係を何かはき違えているように感じられてしまう。
どんなに優れたクリエイターも、アーティストも、あくまでも自分とは異なる価値観を持ち、また考え方をしている「他者」なのであるということ、その前提を崩さずにいるかぎり、あいてを脅迫的にコントロールしようとは思わないことだろう。
【「推し活」とは違うあり方で人と向き合う】
失望することもあるには違いないし、幻滅することもあるかもしれない、そのことは辛いことではあるが、人間同士の関係では避けがたいものなのだと認識するしかないのだ。
それは「推し」とは違う意味で人と向き合うやりかたもあるということである。
あいてが自分にとって完璧な理想的人格「ではない」からこそ、そこから得られるものがあるのだと考えられるということ。
あいてを何もかもパーフェクトに優れた存在としてではなく、欠点も問題もそれなりに抱えたひとりの生身の人間として向き合うときにしか得られない感覚がある。
完全無欠というイメージがしょせん、自己の幻想の投影であるに過ぎないのに対し、そのような好意はより現実的である。
多くのアイドルやアーティストは自分のファンを失望させないため、高潔な人柄を演じる。だが、多くの場合、かれらもじっさいにはそこまで完璧ではありえないことだろう。
ファンはそのような実態があきらかになることを怖れるが、逆にいえば失望や幻滅の瞬間とは、ほんとうのその人に出会えるときだということもできる。
ある「生きた」ひとりの人間と出逢える機会は自分自身が生み出したかりそめのイリュージョンと戯れることより得がたいものであると考えることはできないだろうか。
決して自分を傷つけない、自分の思い入れから外れない理想的な個性、そのようなキャラクターはいずれ、AIが再現できるようになるかもしれない。
そのような日が来たとき、人は人工知能を「推し」にして道標のように扱うことだろう。そして、たったひとつ、そういう「完璧な」AIには決してできない、できてはならないこととは、受け手を「ほんとうに」傷つけることであるに違いない。
その意味では、失望や幻滅、相手に対する幻想を裏切られて傷つけられる体験とは、まさに真実の人間と出逢えたという事実をも意味しているのである。
もちろん、失望してしまってそれ以上はつきあえないと思ったならそっとその人から離れれば良い。しかし、がっかりしてもまだ追いかけていきたいと思うなら、その人を神棚に奉り上げて「推す」のではなく、一個人としてつきあっていくあり方があっても良いのではないだろうか。
ぼくはべつに「推し活」を否定しているわけではない。何もかもが相対的に揺らぎつづけるこのポストモダン現代社会にあって、「絶対的に信じられるもの」を希求する心理は自然なものだろう。
だが、本来、生きた人間とは絶対ではありえないのである。そのことを承知した上で、それでもなおその人のあり方を好きだといえるとき、その好意は揺るぎないものだといって良いのではないかと思う。
欠点をも、短所をも含めてひとりの人間と向き合い、失望をも、幻滅をも乗り越えてこの人のことを好きだと感じる、その複雑玄妙な心理を、人は、「愛」と呼ぶ。ぼくはそのように思うのだが、いかがだろうか。
【さいごに】
最後までお読みいただきありがとうございます。
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