非モテについて考えるとき、ぼくはいつもひとつの疑問に向き合わざるを得なくなる。
非モテを自認する人たちは、なぜ自分がモテない理由を容姿に求めるのかということだ。
かれらは一様に口々にいう印象である。「自分はこんなキモメンだからモテない。女は顔しか見ない」と。
なるほど、と思う。たしかに顔がふた目と見れないほど醜いからモテないということはありえるだろう。
容姿は恋愛ごとにおける重要なファクターである。一般的にいって、イケメンや美女はそうでない人よりより異性や同性に好かれやすい。
ぼくのようなハゲのおっさんの何倍も好意を得やすいのではないかと思うくらい。
しかし、その一方で、その非モテ(を自認する人)がモテないほんとうの理由が容姿にあるのかということは疑問符が付く。
単純な話、容姿に問題があることが自明だとしても、その他の点に問題がないということにはならないではないか。
「容姿が醜い」ことと「容姿「だけ」が醜い」ことは同じではない。容姿に非モテのひとつの理由があるとしても、その他の点に関しては完璧だとはならないのである。
ぼくがこういうとき思い浮かべるのは、自分はどうしようもないキモメンだからモテない、差別されるという人は、それでは、妙齢の異性以外には好かれているのですか、ということだ。
たとえば、両親や兄弟とは仲が良く、友達もたくさんいて、職場では信頼されており、上司にも部下にもウケが良い、さらに見知らぬ人からの好感度も高い、というような人がどういうわけか恋愛においてだけはまったくモテないというのなら、それはたしかに「非モテ」と呼ぶべきであるかもしれない。
生まれ持った容姿や現時点でのスペックが原因であるということも大いにありえるだろう。イケメンやハイスぺに恨みを抱くのもわからないではない。
しかし、そうではなく、そういった恋愛以外の関係においてもまったく好かれていない人が、「オレは顔が悪いから好かれないんだ」と嘆いているとしたら、その意見は疑ってかかる必要がある。
その人はたしかに顔も悪く、お金もないのかもしれないが、その上でさらに人間性まで腐っている可能性があるわけである。
「顔が悪い」とか「カネがない」ということが事実であるとしても、「だから人間性は素晴らしい」とはいえない。モテモテのイケメンや金持ちが性格の悪いイヤな奴だとは限らないのと同じことだ。
ようするに、顔も悪ければカネもなければ能力も低い上に、性格までとことんねじ曲がって歪んでいるという人はいくらでもいると思うのである。
そのような人がまわりから好意を持たれないのはまったくもって当然というしかないだろう。
そのような人物は必ずしも「非モテ」と呼ぶべきではないと思う。ただのイヤな奴とか、嫌われ者というべきなのである。
しかし、ぼくが見るかぎり、あきらかに性格「も」問題がある人が非モテを名乗り、あたかも顔の形「だけ」が自分の問題であるかのように語っているところを見ると、正直、「何だかなあ」と思ってしまう。
その人がモテないのは顔のせい「だけではない」と考えられるからだ。たしかに顔も悪いのだろうが、人間性は輪をかけてひどいじゃん、と思ったりする。
そもそも、インターネットでは顔は(自分からさらさないかぎり)見えない。小説家ではないのだから文章力もそこまで差があるものでもないだろう。
それなのに、そのネットでも、好かれる人は好かれ、嫌われる人は嫌われるのだ。
ほんとうに「人気」とは不思議なものだと思うとともに、じっさいは不思議でも何でもないのかもしれないとも感じる。
顔のせいでモテない、カネがないせいで好かれないと嘆く人は、さて、それでは容姿も収入も関係ないネットではまわりから好かれているのだろうか。
もしそうでないとしたら、やはり顔やお金以外「にも」問題がある可能性を疑ってみるほうが良いと思う。
こういうふうに書くといやがられるかもしれないけれど、でも、事実だからね。
非モテがなぜ、ルックスに、所得や収入に自分がモテない原因を求めるのか、ほんとうはその理由は瞭然としている。「何もかも自分のせいじゃない」と思いたいからである。
「容姿が原因で差別されている」のだとすれば、すべては運命というか神さまの責任なのであって、自分は何も悪くないといい張れる。
また、収入の格差が理由であるのなら、「カネにしか興味がない卑しい女ども」が悪いのだから、やはり自分は何ひとつ問題がないと考えることもできる。
しかし、自分の人格にこそ問題があると考えてしまうと救いがなくなる。
よくよく考えてみれば、世の中には容姿が人並みかそれ以下でも不思議とモテる人は実在する(まさか、そんな奴がいるはずはないとはいわないだろう)。
また、べつだん金持ちでなくても好かれたり信頼されたりする人物もいる(いないわけがないよね)。
そういう人はあたりまえのように恋人が絶えなかったりするのだが、非モテ論ではそういった人の存在は無視される傾向があるようだ。
自分と同等の条件で好かれている人を話の俎上に上げてしまったら、問題はそういった「条件」にあるのではないということになってしまうからだろう。
しかし、ほんとうは「条件」がすべてではないのである。どんなに認めたくないとしても。
もちろん、人より不細工な奴、貧乏で生活もままならない奴は恋愛において大きなハンディを背負っている。そういう人はモテづらい。その事実を認めないわけではない。
だが、それでもモテる人はモテる。好かれる人は好かれる。愛される人は愛される。
そこには何か不思議な魔法の力が働いているようにすら思われる。
じっさい、愛の問題は理不尽としかいいようがない。そこに、何らかの法則を見て取ろうとしても無意味なのではないかとすら思えるほどだ。
ぼくは自分のモテなさを嘆く非モテの人がどうしても恋愛をするべきだとは思わない。モテる努力なんてしなくても良いのではないかとも考える。したって、モテるようになるとはかぎらないし。
だが、「自分には何の問題もない」、「悪いのは世界だ、神さまだ、運命だ、顔とカネにしか興味がない卑しい女どもだ」と考えている限り、おそらくその人は恋愛以外のコミュニケーションでも失敗することだろう。
そういうねじ曲がり、ひねくれた考え方をこじらせている人は、だれにとってもめんどくさいからである。
だれだって自分の自意識の問題を解決できていないチャイルディッシュな人物の相手などしたくはない。恋愛においても、そうでなくても。
ここら辺、二村ヒトシさんが「あなたがモテないのは、あなたがキモチワルイからです」という通りである。
とはいえ、いったんねじ曲がった心理を矯正することは非常に困難な体験である。また、矯正したところですぐさま魅力的な人間になれるわけではない。
だから、ぼくは非モテは恋愛に過剰な期待を託すことなんてやめて何か趣味でも持ってしあわせになったら良いと思う。
もちろん、恋愛に夢を見つづけたり女性憎悪にひたったりすることもかってではあるが、それはあまりしあわせなルートには思えないのだ。
自分で不幸の沼に座り込んでいる人はめんどくさい。だれからもあいてにされない。
一度限りの人生、どうせなら運命を恨むことをやめてしあわせに生きたほうが良いと思うのだが、いかがだろうか。
違うかな。
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