「『パタリロ!』が放送されていた日本に同性愛差別はなかった」は事実か?

 こんな記事を読んだ。

 AAAの與真司郎氏のカミングアウトに関する記事であり、ほとんど全面的に同意できる。なかでも、非常に興味深いと感じたのが以下の箇所だ。

 最初の右派アカウントのツイートのリプ欄の「ゲイ差別のない日本」と書いてる人いて、すごい認知だなと思うけど(マツコ・デラックス氏などがテレビに出ていることや、江戸時代以前の男色文化などを証拠として「ほら受け入れられてるじゃん」という認識らしい)、現実には「当たり前のようにスルーされる」からはほど遠い。例えば「眼鏡をかけてる人」をいちいち珍しがらないのと同じくらいには全くなってない。

 それな!

 この頃、「日本に同性愛者差別はない/なかった」という主張をいろいろなところで見かけるようになった。

 ぼくは個人的には当然ながら「あるし、あっただろう」という立場に立つのだが、まあ、「なかった」という(非当事者の)意見も鎧袖一触で否定することはしない。

 ただ、面白いなと思うのが『パタリロ!』や『美少女戦士セーラームーン』のような作品がテレビで放映されていたことを引き合いに出して、本邦における同性愛差別を否定する意見である。

 たとえば、こんなふうに。

 ここにあるものは「テレビ番組やマンガで取り上げられていたのだから差別はなかった」というロジックである。

 つまり、仮に日本に同性愛差別があるとしたら、同性愛者をテレビに出せるはずがない。同性愛をあつかったテレビ番組(それも子供向けのアニメ)があったということは、日本にそのような差別が存在しなかった何よりの証拠だろう、ということなのだろう。

 なるほど。

 あなたはこのロジックに賛成されるだろうか。「もっともな意見ではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれない。

 しかし、ぼくが思うに、このまったく同じ論理で、たとえば「オタク」に対する差別の歴史も否定できてしまうのではないだろうか。

 オタクはその存在が認知されてからしばしばテレビで(多くの場合は面白半分であろうが)取り上げられてきた。したがって日本にオタク差別はなかった。こういい切ることができてしまうと思うのである。

 また、日本では容姿や外見による差別なども存在しないことになる。なぜなら、テレビにはちゃんと不細工な人物も出て来るからである。

 キモメンが差別されているなどというのはただの被害妄想であり、わが国では容姿で人が差別されるなどという事実は認められないのだ。証明終了。

 アイヌや沖縄県民や在日韓国人だってテレビに出たことはあっただろう。劇作家のつかこうへいのように「在日」であることが知られていながら演劇界で人気を誇った人物もいる。

 よってアイヌ差別も沖縄県民差別も在日韓国人差別も日本にはなかった。

 また、ここまで考えると女性差別などというものが日本の歴史上存在しなかったことは自明だ。

 なぜなら、テレビ局の開設以来、つねに女性はテレビに映って来た上に、そのことが問題になったり、それが原因で女性が殺されたりするようなこともなかったからである……。

 いかがだろうか。「テレビで××が登場する番組を放映できたのだから××に対する差別などなかったのだ」という理屈はここまで拡張できてしまうと思うのだ。

 というか、むしろ、「テレビで同性愛者が登場する番組を放送できたのだから同性愛者に対する差別などなかったのだ」と主張する人は、論理的に、その他のテレビ番組に登場する人種に対する差別の存在をも否定しなければならなくなるのではないだろうか。

 その結果、近代日本には歴史上、ほとんど差別などなかったことになる。

 さらにいうなら韓国や中国の歴史に日本人に対する差別など存在しないともいって良いかもしれない。

 これらの国では何十年も前から日本の文化が解禁されていて、しばしばテレビでも取り上げられてきただろうからである。

 ここまで来れば、東アジア全体でほとんど大半の差別がなかったことを「立証」することもむずかしくないように思える。

 ぼくがそう言っているわけではない。「だって、テレビに出ていたじゃん。だから差別なんてなかったんだよ」というのなら、ロジカルに考えればそういうことになるだろうといっているだけである。

 あるいは、このように書くと「いや、取り上げられ方こそが問題なのだ」という人もいるかもしれない。

 「『パタリロ』は同性愛者をフェアに、ポジティヴに描いている。そういう番組があったことが日本で同性愛者が差別されてこなかった証拠なのだ」という意見である。

 なるほど、『パタリロ』は(きょうの視点で見ればいくらか問題は見つかるかもしれないが)非常に博愛的な作品である。

 同性愛者だけではなく、ロリコンのCIA局員なども登場するところからも、その奔放なまでのリベラルさは感じ取れる(アニメには出て来ていないかもしれませんが)。

 しかし、『パタリロ』が同性愛と同性愛者を差別的に描いていないことを認めるとしても、テレビではしばしば同性愛者をからかったり、嘲ったりする内容の番組が放送されてきたはずだ。

 たとえば、とんねるずが「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお) 」をネタにしたコントを作ってきたように。

 テレビが一貫して同性愛者に対してフェアであったなどという事実は存在しない。そう主張するのだとしたらそれはある種の歴史修正主義であるとぼくは考える。

 また、当然だが同性愛者への差別や迫害がいちじるしいと非難される欧米でも、同性愛者による同性愛を扱った作品は作られてきた歴史がある。

 たとえば、イタリアの大貴族にして天才映画監督であったルキノ・ヴィスコンティは同性愛者であり、『ヴェニスに死す』のような同性愛をテーマにした映画を撮って世界中で評価された。

 その原作のトーマス・マンはノーベル賞まで受賞している。このように考えていくと、「欧米も含めて世界中で同性愛者が差別された歴史などなかった」といったほうが良いようにすら思えてくる。

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 しかし、もちろんそんなはずはない。差別はあったし、現実にあるのだ。その事実を否定する「他愛ない人たち」は、そのわりに自分たちのグループは差別されてきたと主張する傾向があるように思える。

 結局のところ、人間は自分の痛みは直接に感じるのに対し、他人の痛みに関しては想像力を働かせなければ感じ取れないので、「自分がいちばんひどい目にあっている」と感じやすいのだろう。

 その一方で、たとえば性的少数者は性的多数者の数倍の自殺リスクを抱えている現実がある。そこにはいまなお残るセクマイの「生きづらさ」の問題があるのだ。

 もちろん、自殺リスクが高いから差別はあるのだ、とは一概に短絡できない。男性の自殺リスクが女性より高いから男性は差別されていると一概にはいえないことと同じだ。

 しかし、ぼくとしてはとにかく人がセクシュアリティの問題で自殺しないで済むような社会のほうが良いと考える。

 『パタリロ!』や『セーラームーン』が先駆的な作品であったことは事実だろうが、それらの業績を誇るために、同性愛者の被差別や苦しみを否認する必要はないのではないかと、ぼくは個人的に思うものである。あなたは、どう思われますか。

 「カミングアウト」一般の話は、近くまた書きます。続けて読んでくださると幸い。

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