Something Orange

オタクのオタクによるオタクのためのウェブサイト

漆黒の絶望が生みだした現実否定文学「異世界転生」に希望は見いだせるのか?

 「異世界」とは結局、何なのか?

 芳賀概夢&灯まりも『異世界車中泊物語 アウトランナーPHEV』というマンガを何だか気に入ってしまって、読みつづけている。

 一見するとあまり語ることのない、見ようによっては平凡な作品である。

 主人公は仕事にも生活にも行き詰まっているダメサラリーマンで、あるとき、ちょっとしたことから異世界におもむき、そこで冒険したり、美少女たちと出逢ったりする。

 なんということはない、あたりまえの「異世界系」。

 それはそうなのだが、この作品に特異性があるとすれば、それはいったん行った異世界から「現実世界に戻ってくる」ところだろう。

 そう、この物語においては主人公が、異世界と現実を行き来しながら少しずつ少しずつ「成長」していくのだ。

 ここが、革命的に新しいというほどではないにせよ、何となく気になる。

 現実と異世界を往還するだけなら『日帰りクエスト』の時代からあるにはあるのだが、それでも、いままでの「異世界系」は「行ってしまって、帰ってこない」ストーリーが主流だった。

 そもそも「異世界転生もの」のばあい、転生するまえに一度死んでしまっているのだから帰りようがない。

 「転生もの」よりさらに以前のファンタジーの主流が「行きて帰りし物語」だったのに対して、「転生もの」は故郷に帰るつもりがまったくないのだ。

 

 

 なぜ、このような物語類型が生まれたのか?

 その点について考えるためには、そもそも、「小説家になろう」を中心に爆発的に浸透し、いまなお広く読まれている「異世界系」の、その「異世界」とは何なのか、考えなければならない。

 ここから先の内容は有料です。300円でお読みいただくことができます。また、月額1000円のサブスクリプション会員になるとすべての有料記事を読むことができます。良ければ、会員登録して続きをお読みください。

この続きはcodocで購入