努力の神話はほんとうに死んだのか。

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海燕

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「水は低きに流れる」

『攻殻機動隊』

 どうも、いい歳して無職でヒマ人の海燕です。だれかお仕事ください。

 で、あまりにヒマなのでXを徘徊していたら(XではなくTwitterだといいはるのは泣く泣くあきらめた)わりとありがちなオタクヘイトポストを見かけた。

 うん、まあ、客観的なファクトに反しているよね?と思うわけだけれど、もういいかげんいわれ慣れているので腹も立たない。

 現実にはオタク的なアニメにははるかに多様性があるわけであり、ためしに秋アニメの一覧を眺めて確認してみたところ、この手のネット小説由来の願望充足アニメは10本に1本あるかないかというふうに見えるのだが、人間は基本的に見たいものしか見ないものだからしかたないだろう。

 リプライやリポストで「女性向けだって変わらないぞ」といっている人もたくさんいるし、それはたしかにそうなのだが、そういうことをいちいち指摘しても絶対にあいてにはとどかない。

 まあ、一見すると逆の立場とも見える女性嫌悪的な人たちもそうだが、ひっきょう、何かを憎むことでしかエネルギーを得られない人は放置するより他にないのである。といいつつ、ぼくもつい取り上げてしまっているんだけれどね。

 それにしても、このポストが面白いのは、やはり「努力」という概念が登場してくることである。そういったなろう的な願望充足ファンタジーの問題は、「努力もせず」頂点をめざそうとしていることだという認識が透けて見える。逆にいえば、努力しているならそこまで「気持ち悪く」感じないということなのかもしれない。

 しかし、現実に、世の中にはそこまで努力しなくても頂点に立ってしまう人もいれば、だれよりも頑張ってもまったく報われない人もいるのである。世界はその意味でまったく不条理にできている。昔の少年マンガとは違うのだ。

 たまたまいま、『ブラック・スワン』で有名なナシーブ・ニコラス・タレブの『まぐれ』という本を読んでいるのだけれど、そこでさまざまな学問領域を横断しつつ描かれているのは、成功/不成功を最も大きく左右するのは「努力」ではなく、「才能」ですらなく、「運」でしかないというつらい事実だ。

著:ナシーム・ニコラス・タレブ, 翻訳:望月 衛
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 そこからタレブは「一時的に結果を出したからといってその人物を無条件に信用するな」という教訓を導き出していくのだが、まあその妥当性はともかく、「努力」をあまり信仰するのは考えものだと思う。

 たしかに成功者はしばしば「わたしはだれより努力したから成功したのだ」と「努力」と「結果」を因果的に語るが、そこではいわゆる「生存者バイアス」が無視されている。

 じっさいには、たまたま運よく成功した人だけが個人的な努力と良い結果を結びつけて語るのだという可能性があるわけなのだ。あまり「努力」を神聖視するのも考えものだ。

 とはいえ、現実的には成功するためには一定以上の努力が必要な場合が大半であることもたしかである。成功/不成功という結果は神さまが振ったサイコロの出目で決まってしまうのかもしれないが、まったく努力しなければそもそもその賽を振ってもらうことすらできない。

 タレブが書いている通り、努力と成功は因果関係にあるわけではないが、努力は成功の前提条件として厳として存在するのだ。

 その意味で、まったく努力もせずに「チート」で成功していくネット小説の類はたしかにある種、ポルノ的というかファンタジー的な側面を持つだろう。しかし、どうだろう、そこにはほんとうにまったく「努力」が描出されていないのだろうか。

 ここで考えなければならないのは、そもそも「努力」とは何かということだろう。

 ぼくのような年寄りは努力というとまず、ある目標に対し精神的/肉体的コストを蕩尽することを意味しているように考える。1日10時間勉強しつづけるとか、毎日腕立て伏せを100回やるとかいったことが典型的なイメージだろう。これを仮に「古典的努力」と呼ぼう。

 かつての「努力マンガ」や「努力アニメ」では、この古典的努力が信仰のように賛美されていたように思う。そこでは成功と努力を一直線で結ぶナラティヴが生きていたのだ。

 一方、現代の「あたらしいタイプの努力マンガ」や「異世界チートアニメ」では、この神話は崩れている。そこで「古典的努力」がまったく描かれないというわけではないかもしれないが、昔日ほどのバリューは認められていないといって良い。

 だが、だからといってそこに「努力」がまったく存在しないといい切って良いのか。たしかにただただしゃにむにコストをつぎ込む「古典的努力」はそこでは死んでいるかもしれない。

 しかし、そこではあらたに「持てる資源をいかに効果的に運用するか徹底的に考え抜いて実行する」という意味での、いわば「合理的努力」が誕生しているのではないだろうか。

 これはもちろん、現実世界で活躍しているアスリートが、まさにこの種の努力(と、幸運)によってかつては考えられなかったような巨大な成果を出していることとパラレルだろう。

 もはや、ただひたすらにうさぎ跳びをくりかえせば身になるという意味での「努力」は信じられない。また、努力しさえすれば必ず成功するという神話も信じることはできない。だが、それでも努力のナラティヴは死んではいない。ただ、いまでは「より洗練された努力」が描写されるようになってきているのだ。

 異世界転生の主人公たちは何らかの「チート」をあたえられることが多いが、ただ漫然と「チート」を活用すれば成功できるとはかぎらない。やはりその「チート」を「具体的に」どう使うかという工夫は凝らさなければならないことが少なくない。そこで知恵を絞ることは「合理的努力」の一例だ。

著:氷樹 一世, その他:蘇我 捨恥(ヒーロー文庫/主婦の友社), その他:四季童子
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 大昔のスポコンマンガのような「とにかくしゃむに努力すれば良い」という古典的努力の描写がもう通用しなくなっていることにぼくは確信がある。ただ、だからといってだれもが「努力なんて無意味だ」と冷めているかというとそうではない。

 あたらしい世代の努力ものでは、「努力の質」こそがきびしく問われるようになっている。この努力描写の変化は、やはり往年の名作『ベイビーステップ』が大きなターニング・ポイントになっている気がする。

 そしてより最近の『アオアシ』とか『メダリスト』あたり読んでいるとつくづく思うのだけれど、「現代努力マンガ」における「努力」の描写はほんとうに具体化し洗練されている。

著:小林有吾, その他:上野直彦
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 「まずはうさぎ飛び100回!」みたいなただやった気になるだけの無意味な努力はまったくなくなり、いかに効果的に結果をめざすかの方法論が常時アップデートしつつ追及されている印象だ。

 最近、『ワールドトリガー』最新話のそれこそ「努力」をめぐるエピソードが広く話題となり、ぼくも読んだのだが、そこで描かれているものはきわめてわかりやすく、そして具体的な「成長するための方法論」だ。

著:ジャンプSQ.編集部
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 ほとんど企業研修のノリですらあるが、それでいてパワハラ的な高圧さがまったくないところも素晴らしかった。まだ単行本化されていないので『ジャンプスクウェア』本誌を買って読むしかないのだけれど、それでも未読の方にはご一読をオススメする。これこそまさに「合理的努力」の教科書といって良いのではないだろうか。

 もっとわかりやすくいうならこういうことになるだろう。「古典的努力」がただなかば自己満足的に努力の「量」だけを誇るのに対し、「合理的努力」において問題となるのは、それに加えて努力の「質」なのだ、と。

 あたらしい努力マンガにおいても努力の「量」が軽視されているわけではない。しかし、それ以上に「質」こそが大切であることは、もはや自明視されているといっても良いかとすら思える。

 現代のフィクションが描いているのはこのような壮絶な光景である。成功という結果には、「量的努力」や、「質的努力」や、「才能」や、「幸運」や、「環境」や、「モチベーション」がかぎりなく複雑に関っているというリアルな認識のもと、その理不尽をねじ伏せるためにはどうすれば良いか? その戦いがくりひろげられるのだ。

 と、ぼくは思うのだけれど、じっさいに作品を虚心坦懐に読んだりしない人にとっては、それはただ「努力もせずモテたがっている」ような作品ばかりと見えたりするわけなのだ。結局、すべては見る側の問題だということ。

 余談だが、大きな話題を呼んだ『ワールドトリガー』最新話を読んで、ぼくは『3月のライオン』におけるいじめのエピソードを思い出した。クラスでいじめを首謀した生徒にある教師が対して滾々と語るセリフ。

著:羽海野チカ
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「なあ高城… お前は多分 今 不安でしょうがないんだな 何もやったことが無いからまだ自分の大きさすら解らねえ… ――不安の原因はソコだ お前が何にもがんばれないのは自分の大きさを知って ガッカリするのがこわいからだ だが高城 ガッカリしても大丈夫だ 「自分の大きさ」が解ったら 「何をしたらいいか」がやっと解る 自分の事が解ってくれば 「やりたい事」もだんだんぼんやり見えてくる そうすれば… 今のその「ものすごい不安」からだけは抜け出る事が出来るよ それだけは おれが保証する」

 そう、「努力したがダメだった」とか「挑んではみたが失敗した」といった人はひとりの人間として見てずいぶんと立派な方なのである。ほんとうにダメな奴はそもそも「何もしない」。まず、挑戦することを避ける。

 そうれば失敗することも間違うこと恥をかくこともなく、「自分の大きさを知ってガッカリする」こともまたないからだ。そしてその上で他人の失敗を嘲り笑っていれば、「自分だってほんとうはやればできる」という幻想を保持することができる。

 オタクでもそうでなくても、こういう状況陥っている人は大勢いると思う。努力すれば成功するというのは大きなウソに過ぎないが、それでも挑戦し努力しているということはそうとうたいしたことなのだ。少なくとも、何もしないで他人のミスを笑うだけの人間よりよほど偉い。

 これが、これこそが、ぼくにとっての「努力神話」である。ぼくじしんは、ろくに頑張ったことがないけれど、頑張っている人たちはほんとうに偉いと思う。たとえそれが即座にわかりやすい成功につながらなくても、それでも。

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