努力の歴史はどこから来てどこへ行くのか。

「刻むんだ 目の前の1段を登るために必要な要素を 1段の中でさらに刻んで 自分が登れる小さいステップを作るんだ その行動を努力と呼ぶ」

――『ワールドトリガー』

 先日、「努力の神話はほんとうに死んだのか」という記事で、現代の小説やマンガなどではひたすらに精神的/身体的負荷の量で勝負する「古典的努力」から、行為の質を問う「現代的努力」へ、努力描写が変質しているのではないかという話をしましたが、今回はその続き。もう少し話を深掘りしたいと思います。

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 とはいえ、ここで取り上げるひとつひとつの発想を詳細に検証していく余裕はないので、この話はまあパッと思いついたアイディアのラフスケッチくらいに思っておいてください。

 Wikipediaとかの情報を元にしているところもあり、わが話ながらあまり信頼性がありません。純粋な与太話としてはそれなりに面白いと思うんですけれどね。

 まあ、前回、「努力」の変質について考えてから、そもそも「努力し成長することをめざす」ことを描く作品ってどのあたりから生まれたんだろうと考えてみたんですよ。

 もちろん、これはさかのぼろうと思えばどこまででもさかのぼれる話ではあるでしょう。それこそ『ギルガメッシュ叙事詩』とか、各国の神話でも英雄の試練と成長が記述されているよね、とはいえる。

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 しかし、ここで言及したいのは、そういう半神的なヒーローたちのことではなく、あくまで生身の人間が人並み以上に頑張ることで成長していく物語のこと。

 となると、やっぱり近代文学、それもヨーロッパで革命が起こって王政が打倒されたりして市民社会が成熟していく18世紀から19世紀あたりの作品から始まっている側面が大きいんじゃないかと思ったのです。

 それ以前の完全階級社会では、そもそも個人がいくらがんばっても階級を超えてのし上がることは不可能に近いわけですよね。だから、「努力」とか「成長」という概念が持つ意味も、おそらく現代とは違っていたのだろうという気がします。

 「大きな夢や野心を持ち、頑張って階級を上昇しようとすること」はむしろそういった社会においては「秩序を乱す悪」としてすら受け止められていたところもあるんじゃないかと。

 それが、ディケンズとかになると、貧しい身の上から努力によってのし上がる人物というのが描かれているわけですよね。いや、ぼくもくわしく知っているわけじゃないんだけれど、あの有名な『クリスマス・キャロル』の主人公は、金持ちになる過程で人格が歪んでしまったスクルージ老人でした。

 また、なぜか読んだことがあるスタンダールの『赤と黒』では、明確に階級上昇をめざす野心家の主人公ジュリアン・ソレルが描かれています。

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 この小説、いま読んでもわりとふつうに面白かったりするんですけれど、それは主人公の価値観がわりに現代人に近いところまで来ているからでしょう。

 他にもバルザックとかサッカレーとか、女性ではブロンテ姉妹の『ジェイン・エア』や『嵐が丘』なんかも、わりといまのぼくたちが共感しやすい「野心と努力」を描いている。つまり、現代人たるぼくたちが理解できる「努力の物語」には200~300年くらいの歴史があるんじゃないかと考えたわけです。

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 いや、ほんとにただの思いつきであって、真剣な考証に堪える話ではありませんからそう思って読んでくださいね。

 で、さらに、現代的な意味での「努力と成長」は、より直接的には19世紀のいわゆる教養小説(ビルドゥングス・ロマン)あたりに源流があるんじゃないかなあとも思いました。

 というのは、ビルドゥングス・ロマンと呼ばれる小説では、古代の英雄たちのように「外的試練」に打ち勝って強くなることではなく、何らかの知的経験を積んで「内的成長」を遂げることこそが重視されているんですね。

 ぼくは大昔、トーマス・マンのあの分厚い『魔の山』をいちおう読み上げたのですが(これが意外にも面白いのだ)、そのクライマックスでは主人公ハンス・カストルプは第一次世界大戦の戦場へ趣き、生死不明の状態になります。

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 しかし、マンは「こいつが生きていようが死んでしまっていようがどうでもいいのだ」みたいな身も蓋もないことを書いているんですね。あくまでかれが知的成長を遂げたことが重要なのであって、生死は問題じゃないんだ、と。それくらい「内的成長」はビルドゥングス・ロマンの重要なテーマなのです。

 で、現代の成長物語でも、この「内面をより良く成長させること」が大きく問われているでしょう。

 たとえば桜木花道の成長にぼくたちが感動させられるのは、単にかれがより高く跳べるようになったからではありません。そうではなく、花道がその内面において人間的に大きく成長したことがわかるからこそ感動するのに違いありません。それは、やっぱりある種、ビルドゥングス・ロマン的なところがある。

 そういうわけで現代の「努力マンガ」は、「野心」や、「努力」や、「成長」、そして多くの場合にはその悲劇的顛末を描き出す近代的なリアリズム文学に遠い祖先を持つのではないか、逆にいうとそれ以前とは断絶しているのではないか、というのがぼくが友達と話しながらてきとうに思い浮かべたぼんやりとした話です。

 そういった文学性は20世紀に至り、吉川英治の大衆小説『宮本武蔵』などにおいても見られる。ぼくたち日本人は国民性的にそういうストイックな求道者のイメージがことのほか好きなんですね。

 で、また、それがやがてマンガ『巨人の星』に至ってスポ根ものが開花すると。いや、このあいだにだいぶ色々あって、たとえば『イガグリくん』などという作品がスポ根の源流としてよく名前が挙がるわけですが、ここら辺はさすがにぼくは読んでいないので何ともいえない。

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 ある程度読んでいるのは『鉄腕アトム』とかで、これはスポ根とはまったく断絶している手塚治虫の代表作ですね。

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 ここで思い出すのが大塚英志さんの『アトムの命題』。生身の人間のような「傷つく身体」を持ち、成長していくことを望まれながら成長できない存在としてのアトムについて語った本だったと記憶しているのですが、なるほど、アトムはしゃにむに努力して成長していくというキャラクターではないように思える。

 そういう意味ではあまり身体的才能に恵まれていないくせに超人的努力をくり返して成長してゆく星飛雄馬はアトムとは対照的なキャラクターだといえるかも。

 しかし、以前の記事で書いたように、ここでの努力はあくまでいかに身体に負荷をかけるかを競う「古典的努力」でした。

 『巨人の星』以降のスポーツマンガがこういった描写になったのは、東京オリンピックなどの影響もあったようなのですが、より重要なのはやはり高度経済成長を遂げてゆく社会背景でしょう。

 とにかく、全国制覇とかをめざすためにはめちゃくちゃストイックに身体を酷使する形で頑張らなければ話にならないという、そういう描写が紆余曲折を経つつ、長いあいだ連綿と続くわけです。

 これが決定的なターニング・ポイントを迎えたのはバブル崩壊も近い1990年年前後だと思います。

 『巨人の星』的なスポ根の流行も遠い過去となり、『YAWARA!』などオシャレなスポーツマンガが登場するようになった時代ではありますが、この頃にはまだギリギリ「古典的努力」の描写が残っていたように思われるのです(余談ですが、このあたりから才能が努力の蓄積を凌駕する描写の「天才マンガ」が始まっている印象ですかね)。

 その頂点として、ぼくは曽田正人『シャカリキ!』を挙げたい。まだ読んでいない人には押しつけてでも読ませたいくらい熱い名作なのですが、この作品(や、その後の曽田作品)のなかで描かれている「天才」とは、「狂気の領域まで集中して努力する動機のもち主」に他なりません。

 「古典的努力」の描写を突きつめ切った結果としてその向こう側まで突き抜けたのが曽田正人の作品なのだと思います。「古典的努力」の到達点というか最後の輝きというか。

 そして、象徴的なことにはその少し前には「古典的努力」から「合理的努力」へのブリッジとなるような傑作がふたつ生まれています。

 ひとつはもちろん井上雄彦『SLAM DUNK』、そしてもうひとつは、河合克敏の『帯をギュッとね!』です。

 『SLAM DUNK』は当然ながらスポーツマンガの歴史においてさまざまな画期をもたらした作品ですが、ある意味では「古典的努力」と「合理的努力」の両面を併せ持っているようなところがある。

 いまの視点で見て面白いのが安西先生という「合理的指導者」の登場で、かれは「シュート2万本」のようないかにも古典的に見える努力を花道に強いながらも、「正しいフォームで打たなければ意味がない」という合理性を示してもいます。

 「古典的指導者」そのものとしかいいようがない星一徹とはわけが違うわけですね。ここにおいてスポーツマンガのリアリティの階梯が一段上がったといっても良いのではないでしょうか。

 とはいえ、今回の話の文脈においてより重要なのはじつは『帯ギュ』のほうであるかもしれません。この作品においては、「体格において不利なほうがいかにして勝つか」というテーマに対して、はっきり「科学的トレーニングが大切だ」という答えを出しています。

 また、「とにかく苦しめば良いというものではない」、「楽しみながら強くなることはできる」という描写もあって、時代性を考えると、きわめて斬新な作品という気がします。

 もし『帯ギュ』を読んでいない人がいたら(まあ、たくさんいるんだろうなあ、いまの時代)、ぜひ読んでみてください。おっもしろいぞう。『シャカリキ!』も『帯ギュ』も、『SLAM DUNK』ほど有名ではないかもしれないけれど、それに匹敵するマンガなのです。とにかく素晴らしい。

 で、その「合理性を追求する路線」はさらに時代が下った2007年の『ベイビーステップ』に至る、といいたいところなのですが、そのまえに2003年の『おおきく振りかぶって』がありますね。『おお振り』が出てきたときのインパクトはかなりのものがありました。

 さらに、ぼくは未読だけれど2004年に『ラストイニング』という作品がある。はっきり断言はできませんが、こういった作品を経て、その後の『アオアシ』や『GIANT KILLING』や『メダリスト』にたどりついている気はします。

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 また、その少し前あたりから『アイシールド21』や『ONE OUTS』のような一芸というか「異能」を活かすタイプのスポーツマンガが出てきていますね。『黒子のバスケ』はしばらく後。こういうのは『ジョジョ』から『HUNTER×HUNTER』を経て『呪術廻戦』へと至る異能バトルマンガの文脈ともかかわっているのでしょう。

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 ビルドゥングス・ロマンからずいぶん遠いところまで来てしまいました。

 『ハイキュー!!』とか『ブルーロック』あたりをどう考えるかはまだ整理できていない。というか完読してすらいないので「ぼくはただの虫けらです……」という気持ちになってしまいますが、まあ、次回以降の課題としよう。

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 長々と思いつきを語ってしまいました。ぼくはべつだん専門のマンガ研究家でもないただのブロガーなので、こういったラフスケッチで終わってしまいますが、くわしく考えたい方がもしいたらぜひ、試してみてください。

 「努力」という概念のインフレというかエスカレーションはある種の日本人論としても非常に面白い題材だと思います。

 現代において「努力」という概念が完全に風化したとはまったく思いませんが、それを描くことはよりかんたんではなくなっていることはたしかでしょう。

 現代マンガにおける「努力」は、過去よりハイクオリティでなければならないのです。「ただしゃにむに頑張ったから勝った!」ではもうだれも納得しないということ。

 ちなみに最近読んだ『努力は仕組み化できる』という面白い本によると、若い頃(18歳~25歳)に不況を経験した人間は「努力より運を重視するようになる」という研究があるのだそうです。

 これはいま、日本で異世界ものが流行している理由を説明できるかもしれません。「小説家になろう」的な異世界ものの「努力欠如」をあざ笑うことはたやすいですが、背景にはおそらく低成長時代ならではのリアリティがあるわけで、ただ嗤って済ませられる問題ではないように思えるのですよね。

 「努力できるかどうか」といった純粋に本人の問題といった印象のことがらすらも、じつは社会環境によって決まってくる可能性がある、そう考えると、いちがいに努力しない人間を責めることもできないのではないでしょうか。

 もちろん、現実には「それでも、なお」努力しなければどうしようもないということもあり、だからこそいくつもの「新型努力マンガ」がヒットしているわけなのですが。うん、世の中ってむつかしいね。

 まあ、長々と他愛ないことを書いてきましたが、何かひとつでも受け取ってもらえれば幸いです。「努力の神話はどこから来てどこへ行くのか」、とても興味深いテーマなので、ぼくももう少し考えてみたいと思います。がんばろ。結局のところ、そうしないと生きていけないのだから。

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