ある日とつぜん、【自己否定】をやめることができました。

 いきなりこう書くと笑われるかもしれませんが、数日前から突然に「自分が変わった」気がしています。

 レベルアップというか、アップグレードというか、あるいは異質ななにかへのメタモルフォーゼといったほうが的確なのかもしれないけれど、とにかく変化した。もういままでのぼくではない。

 おそらくその変わりようは、いまはよほどぼくのことをくわしく知っている人でなければわからないようなものかもしれないけれど、いずれ、そうでない人にもわかるほどになるでしょう。

 とにかく、変わってしまったのです。いや、ほんとに。

 それでは、どこがどう変わったのか? 具体的には、何十年間もぼくの心のなかに宿っていて、それを焼き焦がしていた火のような「怒り」と「憎しみ」、そして「世界に対する敵意」が消えてなくなりました。

 いままで何をどうやっても消せなかったのに、なくなるときはあっというまでした。なぜなくなったのか、はたしてその状態が永続するものなのかどうか、それはわかりません。

 あるいはまたいつかその峻烈な激情に左右されることに戻るときが来るのかもしれません。しかし、個人的にはそういう日はもう来ないだろうと考えています。

 少なくとも、まったく以前の自分に回帰してしまうことはもうない。そのくらい決定的なターニング・ポイントを迎えたように思います。

 とくに何の「きっかけ」もなく、あまりにもあっさりと乗り越えられたのがいままでの経緯を考えるとウソのようですが、決定的な変化とはいつもそのようにして訪れるものであるのかもしれませんね。

 いまのぼくは、いままでさんざん自分を苦しめ、苛んできた「過去の失敗体験」や「トラウマ」を、冷静に、あたかも他人ごとのように眺めることができます。

 あるいはもう一生、癒えることがないかもしれないと思っていた「心の傷口」を撫ぜても、ふしぎと痛くありません。ほんとうに何が起こったのか説明がつかないのですが、幼い子供の頃からぼくの心を傷つけてきた「強烈な不安」も、「猛烈な被害者意識」も、どこかへ行ってしまったようなのです。

 まったくふしぎな、穏やかな気持ちです。こんなに簡単に治ってしまうなら、いままでの苦しみは何だったのだろうと思うほどなのですが、まあ、こうして30年以上もの時を経なければいまの境地にはとどかなかったのかもしれず、いままでの人生は無駄ではなかったように感じています。

 そう――言葉にしてみればじつにシンプルなことながら、ようやくぼくも「敵」と「自分」、「被害」と「加害」というかたちでの世界の捉え方を卒業できたように思うのですね。

 もちろん、いままでも「ただの言葉」としてはわかっていたことでした。この世はそのようなわかりやすい二元論で割り切れるものではないと、そう口にすることはじつにたやすかった。

 しかし、その一方でぼくはずっと世界は敵ばかりであり、自分は強烈な被害に遭っているとそう感じていたのです。そしてまた、そうでなければ自分は悪辣な加害者で、他者を傷つけた責任があるとも思っていました。

 この世は殺すか殺されるか、そして殺さなければ殺される場所だ、そう、はっきりと考えていました。

 いまは、自分はシンプルな意味での「被害者」でも「加害者」でもなく、「殺すことも殺されないこともしない生き方」こそが大切なのだと思います。

 たしかに、ぼくはいつも傷つけられ、踏みにじられて生きてきたように感じていたし、じっさいのところ、そういう側面は大いにあったことは認めざるを得ない。また、だれかを傷つけ、踏みにじったことも数知れないことあるのでしょう。

 その意味でぼくは激甚たる「怒りと憎しみ」を抱かざるを得なかったし、その一方で悪夢のような「罪悪感」も感じていた。だけれど、いまはそのすべてから距離を取り、「ひとがみな邪悪な存在だとは限らず、自分自身も含め、ただ弱く愚かしいだけなのだ」と考えることができます。

 そう、ほんとうに言葉にしてしまえばたったそれだけの、ありきたりの真理です。いままでだって「言葉」の次元では理解していたことではある。

 だけれど、あえていうなら、その真実を言葉をはるかに超えて「実感」できたことが大きい。

 どういえば良いのだろう――ぼくはこの歳にしてようやく、「暴力や暴言の被害者としての自分」という物語を「手放す」ことができた。

 いままでも、だれよりも自分を傷つけ、さいなんでいるのは他ならないぼく自身であり、すさまじい「罪悪感」や「自己嫌悪」こそがすべての問題の根底にあることは理屈ではわかっていた。

 しかし、ありとあらゆる思索を尽くしても、なお、どうしてもその情緒をコントロールすることができなかった。

 傷つけられた、踏みにじられたという「被害者意識」にさらされることの壮絶な辛さ。また苦しさ。そして、「自分はじつは単なる加害者に過ぎないのではないか」という懐疑の恐ろしさ。

 そういった感情が、ほんとうに一夜にして、まるで恵みの慈雨でも降ったように「鎮火」していました。信じられないけれど、ほんとうのこと。ぼくはある意味では生まれ変わったのかもしれない、といったらやはり笑われるでしょうね。

 ですが、実感としては、以前のぼくとはまったくの別人に変わりました。いや、長い時を経てようやくに「本来の自分」を取り戻した、というほうが正しいのかもしれません。

 ぼくはずっと病み、傷つき、苦しんできた。その病に、傷に、苦しみに、悶えてきた。それなのに、いまではまるで天使の指さきが撫ぜたとでもいうように、その病も傷も苦しみもなくなってしまったのです。いや、この表現は正しくないかな。「それらとの距離を保てるようになった」というべきかも。

 こんなことが起こるとは思っていなかった。一生、消せない怒りにさいなまれて生きるしかないのかもしれないと覚悟してもいた。それなのに、なぜかいま、ぼくは健康であり、いくつもの心の傷痕こそ残ってはいても、まったく健やかです。

 アダルトビデオ監督にして著述家の二村ヒトシさんは、すべて人間の行動原理は幼年期に空いた「心の穴」なるものに起因する、と書いています。ひとの行う非論理的なアクションの数々はその「穴」がそうさせているのだと。

 ぼくはそのフロイト的ともいうべき「幼少時代のできごとにすべての理由がある」といった説明にいまひとつ納得することができないのですが、それでも、「心の穴」という言葉には惹かれるものがあります。

 じっさい、そのような「穴」はだれの心にもひらいているものであり、それは「その人自身」ですらあるのだ、という二村さんの説明は説得的です。

 だれでも、生きていれば傷ついたり苦しんだりした経験がある。その「穴」をそのままにしていると、「穴」にコントロールされてしまうのですね。

 一方で、まさにいままでのぼくのように必死になって「穴」を埋めようとしても、たいていの場合、あまりうまくいきません。なぜなら、その「穴」をふさごうとする行為そのものが、「穴」をさらに大きくしてしまうという矛盾があるからです。

 ひとはしあわせになりたい、楽になって生きていきたいと望みながら、そんな自分を攻撃し、傷つけ、苦しめ、踏みにじり、地獄へ突き落としたりしてしまうもの。

 その非合理的ともいえる行動は、すべて「穴」によるものなのだ、ということは、なるほど、よくわかる解説です。

 もちろん、かのベストセラー『嫌われる勇気』に記されているように、そういった「過去のトラウマ」が人間を駆動しているといった考え方はひとつのありふれたナラティヴであるに過ぎず、正しく「いま」を生きているかぎり、人はそのような「穴」に支配されることはないのかもしれません。

 だけれど、そういった物語の引力のなんと強いことか。どうにか過去と距離を取ろうとしても、それはそのたびに脳裡によみがえり、「おまえは傷つけられ、踏みにじられ、殺されたのだ」と叫んで心にあらしを巻き起こすのです。

 その「生きづらさの螺旋」を、赤坂真理さんのように「アディクション」と呼ぶこともできるかもしれませんが、いずれにしろ、ひとり過去のぼくに限らず、みずから自分をより不幸な方向へ導いていってしまう人は少なくないでしょう。

 ほんとうは、どの人間だっていますぐに幸せになれる、不幸な過去と別れ、「世界の被害者として、あるいは加害者としての自分」というアイデンティティを捨て去れば「生きてあることそのものの喜び」が湧き出て来るはずなのですが、それでも、どうしても人はあたかも自分自身そのものであるかのような「記憶の物語」を手放すことができないものなのですね。

 ぼくは何とかその巨大な負債のような「過去の自分を定義する物語」をべつの物語へ書き換えることに成功したと思っているのですが、なぜそれを成し遂げられたのか、うまく説明することができません。

 ただの幸運に過ぎないのかもしれませんし、いままでの長い長い苦闘がどうにか功を奏したとも考えられます。

 ともかく、いま、何十年という「くらやみのトンネル」を抜け出て思うのは、つまりは「敵か、味方か」とか「殺すか、殺されるか」といった極端な二元論的な世界観こそが自分を苦しめていたのだ、ということです。

 たしかに世界は数知れぬ暴力で満ち、ただ生きているだけでいくつもの悪意がつぶてのように飛んでくるのだけれど、それでも「殺さず、殺されず」生きていくことはできる。ぼくはいま、そう「実感」してます。そうやって「ちゃんと生きる」ことこそが大切なのだと。

 べつだん、ぼくの「心の穴」がふさがったとは思っていません。しかし、いまのぼくはその「穴」からいくらか距離を取り、それを冷静に見つめることができる。

 自分の弱さを、愚かしさを、「少しだけ距離を取ったうえで」直視する勇気、ぼくに足りないものはそれだったのかもしれません。

 あまりに近づきすぎれば炎のようなエモーションに呑み込まれてしまうし、遠ざかりすぎれば現実をごまかすことになる。その「適切な距離感」とでもいうべきものがぼくには必要だったのでした。

 それは依存的な「アディクション」とは少し違う感覚です。いや、あるいは依存の一種ではあのかもしれないけれど、少なくとも「完全にべったり」ではない。その「ほんの少しの距離」を維持することが、いままではほんとうにむずかしかった。

 いまになって初めて、ぼくはほとんど痛みもなく「自分の傷痕」を見つめることができます。そうなってみて初めて、自分がいかに激しく傷口を掻きむしっていたのかわかる。

 あまりに抽象的ないい草でしょうか。そうかもしれませんが、しかし、言葉にするとそのようにしか表現できない。

 自分の傷から、トラウマから、「穴」からある程度だけ距離を取って、それを「直視」すること。みずからそれを掻きむしるのでも、そこから遠く逃げ出そうとするのでもなく、バランスを取りながら生きること。それが、ぼくが何とか見つけた現時点でのひとつの「生き方の答え」です。

 まあ、「答え」とはいってもあくまで暫定的なものなので、いつかまた迷うかもしれない、このとき気づいたと思ったことは幻に過ぎなかったと思い知ることになるかもしれないけれど、それでも、ぼくはかつて「戦場感覚」とかいっていた自分とは違う自分を発見できたように思います。

 100パーセントの「幸福」とか「平安」なんてこの世のどこにもありえるはずがないし、それを求めることこそが自分を極度に不幸せにする。

 だから、「そこそこ」で満足しながら揺れ動きつづけること、そしてその揺れ動く自分から目を逸らさないこと、ただし一定の距離を保ったままでいること、あえて言葉にするならそういうことになるでしょうか。

 とにかく近づきすぎたり、遠ざかりすぎたりすることは良くない。それでは、どのくらいが適切な距離なのかというと、そこのところは言葉にはできないのですが……。

 ぼくは、いままでどんなに言葉で説明されてもわからなかった。だから、他人に対しても言葉で示すことの限界を感じざるを得ません。ただ、「その時」が来ればわかる。そうとしかいいようがない。

 二村ヒトシは書いています。

 あなたや僕が、女性に『モテたい』と思うのは(あるいは「やりたい」と思うのは)どう考えても、ただたんに性欲のせいじゃ、ないですね。
 きっと人間は、他人から「あなたは、そんなにキモチワルくないよ」って、保証してほしいんです。

 しかし、ぼくはいま、そのいわゆる「承認欲求」にそこまで重きを置かず生きていけるような気がしています。もしかしたら錯覚かもしれないけれどね。「自分で自分をそこまで嫌いじゃないから、だれかにキモチワルいと思われてもまあいいか」と感じるのです。

 ここまで来るまで、長かった。ほんとに。

 くりかえしますが、べつだん「穴」が完全にふさがったわけではないので、近づきすぎたらやはり痛いんだろうけれど、「ちょっとだけ距離を取る」そのやりかたを覚えた気がする。

 だから、いままでは「いつ殺しに来るかわからない」と思っていた他人を怖れないことができるようになった。

 いや、「他人はそんなことをしない」という絶対の信頼が芽生えたわけではない。そうではなく、「殺されそうになったら、逃げよう」というあたりまえのことを考えるようになっただけのこと。

 これが、ぼくの「適切な距離感」のかたちです。モテたくもあり、モテたくもなし。

 安冨歩『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである』は「自己嫌悪」という心理について分析したなかなか秀逸な本ですが、「自己嫌悪」とか「自己否定」といった気持ちは「自分の心の穴にべったり近づき過ぎている」ところから来ているものだと思う。

 距離を取るのだ。少しだけ離れてその「穴」を見つめるのだ。とはいっても、まあ、それができないんだけれどね。ここら辺の感覚の言語化は今後の課題ですね。

 まあとにかくぼくはいま、生まれ変わったようにしあわせです。いつまで続くのかはわかりませんが……。

 いや、元に戻っても、それはそれで良いんだよね。めちゃくちゃ苦しいだろうけれど、「そこから脱出することは可能である」ことはわかったわけだから。次は具体的な脱出方法がわかるかもしれない。

 そんなことを考えながら、生きています。こんなとくべつ内容のない記事を最後までお読みくださりありがとうございました。でわわ。

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