火の時代を生きる氷の少女たち。フェミニズムに失望したあなたをも魅了する新世代ヒロイン群像を徹底解説してみた!

【ほむらの時代】

 刮目し見よ、火の世紀は来た。過去の常識や法則が音を立てて乱れ、崩れ、滅び、まったく新しい芸術と物語とが轟々と燃えさかる焔の時代。

 21世紀の開幕からはや幾十年が過ぎ、世界はいまや革新の時を迎えている。そして、また、この混沌とした世情にあって、内面の苦悩と過重な責任を抱え、いまひとつ冴えない様子のヒーローたちに代わって出色の活躍を見せるのが、かつては塔のうえの姫君よろしくただ護られるだけであったヒロインたちである。

 彼女たちは一様に重たげなドレスを脱ぎ捨て、窮屈なコルセットをほどき、ガラスの靴を放り出して、あるいは血煙ただよう戦場へ、あるいは陰謀渦巻く宮廷へと躍り出る。

 わたしたちはそれが男性向けであるか女性向けであるかを問わず、さまざまな物語のなかに、ときに赤黒い鮮血に濡れ、ときに鋭い悪意の刃に切り刻まれながら、それでもなお、立ち上がり、立ち向かい、黄金の意思と漆黒の怒りで己を縛りつける支配と抑圧の鉄鎖を断ち切ろうとする可憐で勇敢な女性たちの姿を見て取ることができるだろう。

 彼女たちはみな命がけの戦いを戦う強靭な心の戦士だ。しかし、その手に持つ武器は刀剣や弓矢の類ばかりとはかぎらない。

 しばしばひたすらに死の衝動〈タナトス〉に取り憑かれ、ニヒリスティックなまでに戦うために戦うバトルマニアのヒーローたちと異なり、彼女たちの戦いには目的があり、理想があるのだから。

 たとえば『天幕のジャードゥーガル』の主人公ジャードゥーガルは、かつて彼女の愛するものを滅ぼした人類史上最大の帝国を崩すため、ありとあらゆる策謀を尽くすことだろう。

 また、『ONE PIECE FILM RED』の実質的な主役である歌姫ウタは、暴力と流血が支配する海賊の世界に弱者のための平和と平安を打ち立てるため、数知れぬ国家と権力を向こうに回したったひとり歌い、戦うことだろう。

ONE PIECE FILM RED

 おお、策謀の海を悠々と泳ぎ切る知性と言葉の魔女! 血にまみれてなお華麗に歌い、踊り狂う美しい姫君! 何と壮絶な少女たちなのか。そして、何という清冽な物語たちなのだろうか。

 しかし――そう、ただ、それだけの娘なら、いままでにもまったくいなかったわけではない。わたしたちは幾多の古びた書物のなかに、お伽噺の英雄さながら故郷や国家を守るために戦ったヒロインたちのエピソードを見つけだすことができるだろう。

 その意味では「戦うヒロイン」は、少なくともこの国においてはとくべつめずらしいものではないのだ。

【あたらしいヒロインとは?】

 だから、わたしがいくら新時代のヒロインたちを誇らしく称揚しても、そんなものは疾うに見飽きたと大あくびする人もいるに違いない。

 たしかにその通り。一理ある話。だが、そうはいっても『アンナ・コムネナ』の主人公、千年帝国ビザンツの皇女アンナが威風堂々と胸を張る姿を見るとき、これは、と思われはしないか。

 また、『薬屋のひとりごと』の一風変わったヒロインである猫猫が猛毒を食み陶然と笑うところを眺めたら、何かが違う、と感じられるのではないだろうか。

 少なくともわたしはそう思い、そう感じる。彼女たちにはいままでの「灼熱の運命に抗うヒロイン」たちにはなかった何かがある。自分たちを束縛する支配と抑圧の権力に対する凄まじい怒りはそのままに、そこにたしかに「何か」が加わっているのだ。

 それは、いったい何だろう。戦線に立つ男性たちに劣らぬ腕力か。否。ジャードゥーガルの二の腕はあいかわらずか細い。死をも滅びをも恐れぬ狂気にも似た蛮勇か。否。否。むしろ、アンナの健全さを見ればわかるように、そのような「ヒロイックな」精神風土からはまったく遠い何かである。

 それは、いうなれば生きるため、己が希みを叶えるために自身の感情を制御する氷の心、みずからの炎の怒りをも抑えつけ操り尽くす鉄の理性、そういったものなのである。

 くりかえそう。彼女たちを抑圧する暴力や権力に対する怒りのすさまじさは何ひとつ変わっていない。もし、剣でその心を斬ったなら憤怒は奔流のように吹き出すに違いない。

 しかし、そうでいて、そこには同時に、めったなことでは怒りのあまり我を失ったりしない「自制」がともなってもいるのだ。

 それこそは、彼女たちがこの狂った世界の脅威に復讐を遂げるため、どうしても身につけなければならなかったものであった。

 ただ力があるだけでは足りない。なぜなら、この世にはより怖ろしい力をそなえた敵がうじゃうじゃと群れを成しているのだから。

 ただ、烈火の如き復讐心を抱いているだけでは不足だ。なぜなら、その敵は強大にして奸佞、だれにも心を許さないようなあいてなのだから。

 そう――つまり、彼女たちが目的を達するためにはどうしても「戦略」が必要なのである。

 個々の局面の「戦術」において天才であるだけでは、到底足りぬ。全世界にも喩えるべき強大なあいてを敵に回して戦い抜くためには、長期にわたって未来を展望し、自分の力を最大限に発揮する能力が必須だということ。

【インターミッション】

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 それでは、続きをどうぞ。

【胡蝶しのぶの何が新しいのか?】

 その最も端的な例を、わたしたちは『鬼滅の刃』に見ることができるだろう。その長さ一千年にも及ぶ人と鬼との決戦の最終最後の局面において、決定的な役割を果たしたのは胡蝶しのぶや珠代という女性たちであった。

 彼女たちは、その圧倒的な実力で最強の鬼にして人類最大の敵手である無惨を追い詰めていく。

 しかし、さらに注目するべきなのは、彼女たちの戦い方がただしゃにむに力を尽くすわけではなく、あくまでも冷静きわまりなく少しずつ少しずつ気づかれぬように無惨の命を削いでいく沈着きわまわりない「戦略」に基づいていることだ。

 そこにおいて、彼女たちは己の命をも、仲間たちの懸命な努力をもすべて一個の盤上に置いて、絶対無敵の無惨を殺害するというたったひとつの目的のため、最も必要なことを必要な通りに行うのである。

 そこにはきわめて明確な「覚悟」があり、そのためにいったい何をどうすれば良いのかという複雑な「計算」があり、何よりすべての事象を透徹した目で見通す神のような「戦略」がある。

 数知れぬ仲間のいのちを奪ってきた暴虐な無惨に対するしのぶの怒りはどれほどだろう。あるいは珠代の憎しみはどんなに凄烈なものだっただろうか。

 しかし、それでも、彼女たちは怒りに、憎しみに支配されはしない。

 あたりまえな人間を遥かに上回る暴力の化身である無惨や上弦の鬼たちをあいてにして、自分たちの手持ちの武器が何と何であるのか、次に打つべき手はどれであるのか、あくまでクールに判定し、次々と効果的な一手を打ちつづけていく、その冷たく冴えわたった知性。

 それは、男たちがしばしば陥る、熱く感動的で、しかしどこかセンチメンタルな自己犠牲の心とはまたべつのものだ。

 あたかも高温の炎が青く変色していくように、彼女たちの怒りは、憎しみは、いっそ冷たくすら見えるほど冴えている。これが、これこそが、わたしがいうところの新世代のヒロイン群像の最大の特徴である。

 つまりは、とほうもなく理性的なのだ。彼女たちは決して「男性的」になったわけではない。その仕草も嫋やかさも妙齢の女性以外の何ものでもない。

 それでいて、しのぶや珠代のインテリジェンスの怜悧さは空恐ろしいほどのものだ。

 彼女たちは地上最大の悪の総帥である無惨に静かに、あざやかに毒を盛る。かれがその計略に気づいたときにはもうすでに遅い。その、人鬼千年戦争を終結に導く決定的な「一手」の鋭さ、そして冷ややかさ。

【謀略の魔女】

 ここで、ジャードゥーガルを思い出してみよう。広大なユーラシア大陸を征服し尽くした大モンゴル帝国をかき乱す彼女の武器は、「魔女」と噂されるほどの知識と知性であった。

 彼女は腕力や軍事力において傑出したものを持つ男性たちに対し、唯一、謀略で立ち向かう。その根本にあるものは、自分の無力に対する徹底した自覚、極限的な自己分析である。

 力だけではどうしても敵わないあいてがいること、己の希みを叶えるためには針の穴を通すような緻密な計算が必要になることを、彼女はやはり冷たいほどに的確に認識し切っている。その意味で、彼女は胡蝶しのぶの瓜二つの姉妹だ。

 また、先述の猫猫もその、人が恐れる毒物に関する特殊な知識と怜悧な推理力に魅力があるという、いままでにちょっといなかったような造形のヒロインである。

 かつて探偵業を「女には向かない職業」と呼んだ女性作家がいたが、猫猫はほとんど女性しかいない「女の園」であり、その寵姫たちが皇帝の寵愛を巡って陰謀を巡らす後宮にひそんで、まさにある種の「探偵」として活動する。

 そして、幾多の事件の真相を推理するとともに、そこで暮らす女性たちの痛み、辛さ、哀しさをも解決していくのである。

 その「毒物オタク」としての特異な個性が、『薬屋のひとりごと』という作品の最大の魅力だろう。

 胡蝶しのぶや「恋柱」甘露寺蜜璃、魔女ジャードゥーガル、絶対的な「自己皇帝感」のもち主であるアンナ・コムニナもそうだが、猫猫のキャラクターも単なる「みんなに愛されるヒロイン」とも、「空想上の美少女」とも質的に違う。

 また、その個性はいわゆる「戦闘美少女」、たとえば宮崎駿が生み出した最大のヒロインである風の谷の少女ナウシカとも違っている。

 さながら永遠の少年ピーターパンのように涼やかに空を飛ぶナウシカがどこか中性的な印象をかもし出しているのに対し、彼女たちには女性として、また年若い少女として、より力があるものに抑圧されていることに対する怒りが明確にあるのだ。

 だが、その怒りは、このような表現が正しいとすれば「成熟」している。彼女たちの激怒は過去のキャラクターと比べ、より冷たく、より鋭く、より正確に発揮されるのである。

【ハル、ハル、ハル】

 そういう意味では、もうひとり、どうしてもここで取り上げたいキャラクターがいる。『JKハルは異世界で娼婦になった』のハルだ。

 まさにヒロイックな血の色の夢に酔う男たちのためにあるかのような「冒険と戦いの世界」にひとり追いやられたハルは、その地で娼婦として暮らしながら、さまざまな虐待を受ける。

 それは、ここで書くこともはばかられるような、ひとの誇りをも尊厳をも打ち砕くような行為の数々だ。

 彼女はいうなれば「男の子の、男の子による、男の子のための物語」のダークサイドに迷い込んでしまった女の子なのである。

 彼女が戦いと序列に魅入られた男性たち、かれらがつくった社会に対して覚える反感は、一面でフェミニズム的といってもよいかもしれない。

 だが、自分の性的な仕事にしばしば苦痛を感じながらも、それに対しどこまでもプロフェッショナルとして振る舞うハルの精神の強靭さ、際立って理性的な姿勢はときに狭隘なセックスフォビアに陥っているようにしか見えない多くのフェミニストたちを遥かに越えている。

 そして、ハルもまた、ときには地獄のような環境に突き落とされながらも、決して虚無感に沈み込むことなく、不思議なあかるさで幾つもの難題を乗り越えていくのだ。

 つまりは、彼女たち新世代のヒロインたちを語るにあたって重要なのは、総じてミクロな情緒の繊細さを示す顔と、マクロな慧眼を見せる戦略家の顔とが、ひとりのキャラクターのなかに両立していることである。

 もはや、ただ激烈な感情の促すままに暴発するような時代ではない。胡蝶しのぶもそうだし、猫猫やハルもそうだが、青白く揺らめくその激しい怒りをそれでもコントロールしようする強靭な意志と理性こそが魅力なのである。

 その冷静さは、感情を爆発させることで最大の力を発揮するよく見かける少年マンガヒーローとは対極にあるものだ。

 怒りは怒り。その激甚たる熱量は微塵も下がりはしない。しかし、それでも、なお、彼女たちは狂猛な敵たちに勝利するため、最大の自制を試みる。その聡明さ、また冷徹さ。

 だから、わたしはいうだろう。刮目せよ。いつ果てるとも知れず続く少年たちの冒険と闘争の物語とは決定的に異なるもうひとつの物語を紡ぐ、新しい世代の少女たちがここにいる、と。

 彼女たちの活躍はやがて現実世界の少女たち、女性たちをも魅了し、社会を大きく変えていくことだろう。

 いま、この混沌と革新の火の時代にあって、氷の心を持つヒロインたちは、その知性と戦略で、ほとんど永続するかにすら見えた理不尽な世界のありようを、静かに、しかし決定的に変えつづけているのである。

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